自分自身が死ぬ事を身近に感じる事があります

自分自身が死ぬ事を身近に感じる事があります

私は現在、42歳で精神の病気により一昨年、仕事を退職してまずは心身を回復される事にしました。
退職後から約1年が経過してから、自分自身の実感としてたいぶ回復したと感じるようになりました。
そこでまた新たに生活を糧を得るために仕事を探す行動を起こしますが、予想通りと言いますかうまくは行きませんでした。
今日現在も無職の状態です、幸いな事に実家暮らしですので、衣食住については今日、明日で困る事はありません。
最近、死ぬ事について思う事が多くなってきました。一緒に暮らす両親も年金生活になり老いを当然ですが、毎年、齢を重ねていきます。
そんな中で生活基盤が安定していない現状で、非常に恐怖、不安の中で毎日を過ごしています。
兄弟を事故で亡くしてから、後の両親の面倒を見る事は私自身の役目でありますが、
そんな両親よりも自分が先に死を迎えるのではないかと感じる事が多くなってきました。
私は配偶者はもちろん、恋人と呼べる存在もいない、さらに友人もほとんどいない。
所謂、寂しい人生を日々、送っている人間です。
もし、両親になにかあった時に果たして自分がその役割を全うする事ができるのか、
その後に生きていく事ができるのか、恐怖と不安の中で今を生きています。
正直、この辛い状況から抜け出すのに死ぬ事も視野に入るのではと考えるようになりました。
当然ですが、自殺は良くない事と自覚はありますが、迷惑を成るべく掛けない方法を探してみたり、
ニュース等で自殺の記事を見るとつい自分にも起こりえるのではと考えてしまいます。
また、たまに自分一人で外出する際に、もう家には戻れないかもしれないなど、良くない予感のような事を感じます。
実際には無事に帰ってくる事が出来ていますが、これからもそうとは限らいないと外出する度に考えています。
今、私自身にとって死は非常に身近にある事だと思います。
それが私自身が死ぬ事なのか、両親を喪う事なのかははっきりしまんせんが、
確実に死は近づいているとこれだけは断言できます。
両親よりも先に死ぬ事は一般的には親不孝と言いますが、そんな事を考えている余裕がない位に自分の死を考えてします。
もしかするとただ楽になりたいだけなのかもしれません、両親を喪った後の事を考えたくないのかもしれません。
でも、就職活動にしかりなにもしても良い結果にでない現状の中で、死ぬ事だけがもしかすると救いなのではと考えます。
死ぬ事へ思い、考えは、自分自身が自分に満足、または誇れる人生を送れない事への逃げなのかもしれません。
それでも死について考える事をやめる事はできないし、生きていく事への希望を見る事ができない状況を変える事ができない
自分自身への当て付けなのかもしれません。結論は今の自分に生きてる価値は無くないから死んでいる事を同じだという事です。

死について(死生観、死を考える時)考えた経験

死について(死生観、死を考える時)考えた経験

死について考えることは、それぞれの場面においてよく見られることですが死ぬことは、誰にでもある生活の場面での現実だとおもいます。現実的に死を迎えることによってどのようなことがおきるか考えることができるとおもいますが、自分がおちいって仕舞ったことによっておきた死についての現実、死を迎えることによって考えられることは、死生観などによって代表される死にかたや、死についての考え方だとおもいます。死を迎えることは誰にでもありますが、それぞれ自分が考えることができる死に方としてそれぞれの方法があるとおもいますが、自分が死ぬこととは、生前にある生の方法そのものでどのような場面、どのようなときに死ぬかを考えることによって生き方全体を考えることだとおもいます。死に方をおもうことによって自分がどんな風にして生活してみたいかということがありますが、生き方は現実の社会において生活の手段として、それぞれ社会の場面でどんな風にして生活の方法をとるかということだとおもいます。それぞれの手段によって生きる方法を考えることができますが、生き方としての社会的な行為や、判断の方法は、それぞれ生きるということを考えることによってどんな風にして生の仕方を考えるか、社会のそれぞれの場面で生きる方法を考えることができるとおもいます。生き方を社会においてすることは、それぞれ社会的に決められた手段によってそれぞれの方法によってすることができる生活の手段として考えることですが、自分がしてみたいとおもう方法での生き方をしてみたいとおもいました。生きるということは、それぞれの手段としてあるとおもいましたが、それぞれどんな風にしていきてみたいかということを、それぞれの社会にある方法で決めて、社会がどんな風にして運営されて、その成員として生活することができるかを考えることができるとおもいました。それぞれ社会の成員として、そのなかでの生き方を考えることによって生を考え、死に方を考える。死に方をどんな風にして考えるかによって死生観として、死について考え、社会にいる人としての生きかたとして、それぞれの手段によってどんな風にして生きたらいいか、そうしたその後死を迎えるかを考えることができるとおもいます。死について考えることは、社会において生きることを意味しますが、社会生活や、社会の組織の一員として生きることによって、その中で死を考える。それぞれ死を現代の生活の中で方法として考えて、自分がどんな風にしてその生活の中で死がどんな風にしてきまっているのかを、おもい、自分の死について考えてみたいとおもいました。死を、現代的意味として、社会的なもののなかで捉えてみたいとおもいました。

死にたい気持ちをコントロールすることについて

死にたい気持ちをコントロールすることについて

私はよく死にたいなと思っていたほうでした。はじめは高校時代、受験勉強のしすぎでノイローゼ気味になることが多く、こんなにもつらいならいっそ死んだほうがましかなとよく布団の中で考えたものです。結局大学には合格したのですが、大学入学後もあまり大学になじめず、こんなに周りには楽しそうな人たちがいるにもかかわらず、自分のつまらなさは何なんだろうと卑屈になることもあり、生きていることに希望を感じることはあまりありませんでした。ここまでの事については死について考えることはあっても、実際に行動に移そうなどという考えは到底ありませんでした。しかし、大学生の後半、就職活動がうまくいかず留年を繰り返してしまいました。このときはさすがに死ぬことを具体的に考えました。今後の長い人生の中で楽しいことが起きることが何も想定できなかったのです。就職できずフリーターでそのまま生きていき、特に何事もなく人生を終えるぐらいであればいっそ今死んでしまおうかと考えてみたこともありました。そんな鬱々とした日々を過ごしていた時、このままでは本当に死にかねないと思い、考え方を少し変えてみることにしました。まずは自身の現状分析、今生きていて、暖かいご飯が食べることができ、暖かい布団で寝ることができる。特に命を狙われることもない。これだけで十分自分は幸せなのではないだろうかと思ってみることにしたのです。今の状況は客観的に見てもいい状況とは言い難いのですが、最低限これだけはそろっているということは世界全体でいえば上位50%より上の幸せな状況といえるでしょう。そう考えると今の状況が少しだけ明るくなり、もう少し頑張ってみようかと思えるようになりました。多くを望まなければ、充分幸せに生きていけることもまた再確認できました。人はいつ死にたくなるかというと、将来への希望が感じられないとき死を考えます。そして、その将来への希望の基準となっているのはかなりの確率で近しい他社の存在です。同い年の友人やテレビで見るセレブなどの周囲と比べてしまうことで希望を感じられなくなってしまうのです。しかし、その基準の視野をもっと広げることによって、まだまだ自分より不幸な人間は世界にはたくさんいて、その人たちが頑張って生きようとしているのに、自分が逃げてどうするんだと気を貼って生きることができます。希望がない状態を絶望といいますが、絶望とは本来もっと遠くにある存在なのかもしれません。そして、その絶望を感じなければ死にたいと思うこともなくなります。現状に悩んで死を考えている人は、その絶望を遠ざける考え方を身に着けることをおすすめします。まずは、これが簡単な処方箋です。

人間は生まれた瞬間から死へのカウントダウンがすすむ

人間は生まれた瞬間から死へのカウントダウンがすすむ

僕なりに生と死に関して思う事は、人は生まれた時から死へのカウントダウンは始っている事。自分の意思で生まれる事は決めれず自分の意思で死ぬ
という選択は出来ます。平均寿命で考えると男性より女性の方が平均寿命は10歳以上長いそうです。何故?男性の方が寿命が短いのか??
僕が思う事は男性は生まれてから死ぬまでに、女性よりも楽しむという事をしないからだと思います。男性は仕事がひと段落した時の時間の使い方が
下手糞で女性は時間の使い方が上手な人が多いと思います。例えば僕の妻もそうですが、料理のレシピを考えるのが楽しいとか。部屋の内装をいじるのが
楽しいとか。日常の生活空間一つとっても男性よりも充実した毎日になるように考えています。長生きをする為には人生を楽しむ事が一番と言う事ですね。
話は変わりますが、今まで生きてきた中で誰しもした事がある話だとは思うんですが、もし仮に寿命があと半年しかなかったら何をするか?という話。
人が自分の寿命が分かっていたらどう過ごすのでしょうか?まず一つ言える事は時間を潰すって言う言葉は使わなくなるでしょうね。
何気なく誰もが使う言葉ですが、死へのカウントダウンが進んでいるのに時間を潰す。命を潰すって言う事と同じ意味になります。
命は誰しも無限にある訳ではないとは理解していますが、時間を本当に大切に考えている人のほうが少ないと思いま。私も今まで死について深く考えた
事はなかったので。ただ人の死は突然であり日常的に起こっていますね。一日中ニュースをつければニュースで流れるだけで殺人事件から自殺まで
死について目にしたり聞いたりしない日はないと思います。どんだけ科学や医学が発展しても寿命は伸ばす事が出来ても殺人事件や自殺などはなくなる
事はないでしょう。例えば交通事故死など、本当に偶然この場に居合わせたので命がなくなってしまったり。そこは運命と受け入れるしかないでしょうね。
昔からよく聴く話ですが自分が死んだ時泣いてくれる人間の数が大事とかっていう話しがありますが。それだけが全てじゃないような気がします。
まず泣いてくれる人の数で自分の生きた評価となるなら、どこそこの大統領が亡くなった。有名人が亡くなった。など人の認知度で泣いてくれる人数は
変わります。僕が一番大事だと思う事は、自分が死ぬ直前に例え一人で床で死の最期を迎えたとしても自分の人生は本当に幸せだったと感じられるなら
それはとても幸せな最期と思います。人は生まれてから死ぬまで人に評価されています。この記事を書くにあたり改めて自分の死までの時間を大切
にし自分が死ぬ時胸を張って幸せな人生だったと思えるように今日から生きていこうと思います。

死後の世界はあるのか無いのか昔から考えてきましたが

死後の世界はあるのか無いのか昔から考えてきましたが

死んだらどうなるのか、考えると怖くて仕方がありませんでした。夜寝ようとして横になっても、天井の模様を眺めているうちに、すぐ死後の世界とはどんなとこなのか…気になって眠れないこともありました。死後の世界に関する漫画も読んだのですが、死んだらその人にふさわしい場所に振り分けられ、悪いことをした人は地獄のようなところに行き、善良な人はご先祖様がお迎えにくるお話でした。
その後、祖母が亡くなり、実際に初めて身近な人の死を体験します。しかし、その時に母から言われたのが「人は死んだら土に返って終わりよ」ということでした。なんだか、この考え方は子供の私にはかなりガッカリでした。今まで祖母と過ごした楽しい時間を考えると、亡くなったら全部消えてゼロになるのは、悲しすぎると思いました。
その頃から、死後の世界については、漠然と怖がるのではなく、みんなどうしているだろうか…という思いを馳せる場所に変わっていきました。確かに、祖母はもういなくて何もしてくれませんが、それが終わりであるとはどうしても思えませんでした。母は、あまりにも悲しみが深過ぎて祖母のことに触れたくないのかもしれないと思ったので、祖母の話はあまりしないようにしていました。
そして、数年前に今度は私の父が亡くなりました。親が亡くなると、死の世界に近づく…というようなことを聞いたことがありましたが、本当にその通りでした。自分もあとどれだけ生きているか分からないし…と、人には言わないものの、よく考えるようになりました。消えていなくなってしまったと思いそうな時には、父があの世で新人さんとしてトレーニング中の姿を想像したりもしました。後から来た方達に、座布団をお出ししてお茶を入れて…と、かなり具体的に。
また、この後で東日本大震災も起きました。大きな揺れを経験するのははじめてでしたし、地震や津波でたくさんの方が犠牲になりました。こんなに多くの人があっという間に亡くなってしまって、これで終わりではおかしい…と、改めてまた死後の世界の存在があるはずだと思うようになりました。それに、世界に目を広げても、あちこちで戦争の犠牲が報じられます。楽しいこともあるけれど、大変なことが地球では多過ぎるように思います。何かのための試練だとしても、もう生きていく気力もない状態の人がたくさんたくさん出ています。
今までの私の人生と世界の状況から考えると、やはり生きている時よりももっと穏やかな死後の世界があるのではないかと思わざるを得ないのです。大変な思いをしながらも頑張って生きた人に、「こんなところがあったんだね」と笑顔になれるような死後の世界があると、私は信じたいです。

生きること死ぬことについての考え(人として考えなければいけない自己理論)

生きること死ぬことについての考え(人として考えなければいけない自己理論)

 人生の中で常に考える事はやはり「生きる事」をやはり優先的に考えてしまうことですね。(自分が死んでしまうことは、まず他人事みたいに後回しになってしまいます。)
この現象は自分が生きることを前提で考えてしまうもので、自分が死に接見するとものすごく恐怖感を覚え「死にたくない」という焦りが気持ちの中に湧き上がってしまうことだと思います。そう言ってしまう私自身も以前は同じ気持ちでいましたが、ある事実から考え方が全く変わってしまいました。その事実とは、ある日、突然クモ膜下出血による動脈瘤破裂により死の境界を彷徨いステージ4まで行き、家族を呼び緊急の一途を辿った経験があります。この時、3週間の意識不明の時期を過ごし、その間は三途の川を夢の中のような中で臨死体験として意識朦朧のなかで体験しました。そこで気がついたのは、「生きることの使命感」について思ったのです。もし人間がその死期がやってくればこのようにステージ4になった私は当然死について一番近い状態で疑いもなくあの世に行くはずなのですが、その予定もなく元の世界にまた再び普通の生活ができるというのはまさに奇跡といっても過言ではありません。(しかし下肢部に障害は残ってしまいましたが…。)やはり、人間は死ぬべき時期は最初から決まっていてその任務を私たちは恐れずに可能な限り生き続けなければならないことを確信しました。これで奇跡的に回復したのでもうすべて良好かと思いきやその後にも私に苦悩が降りかかりました。まず障がいが残った私に待ち受けたものは「リストラ解雇」、「障がい故に就職口が閉ざされ」、「不採用186社の末、やっと採用された会社で障がい雇用に不慣れな会社に就職して一切無視され続けた苦悩」などの生きているうえでの苦悩を体験しました。せっかく生還した私の心の中はボロボロでもう生きる気力さえ失ってしまう大きな矛盾にとらわれてしまいました。
 こんな話をしてしまうのも何ですが実は私の父も似たような絶望感により橋から飛び込み他界しました。その思いから私も同じように橋の上から覗き込み死を決意しようと思いましたが、絶望感はあったのですが、飛び込むことは出来ませんでした。どうしても父と私の境遇は同じはずなのに何故私は飛び込めなかったのか?何故父は他界してしまったのか?この話を要約すると父の運命と私の運命は、最初から決まっていてその寿命も最初から決まっているのかもしれません。(私は2度も命を助けられたのかもしれません。)生きるためのプログラムとして前世と来世につながる為の修行のような気がします。来世の為にも苦労があってもとりあえずは一生懸命生きなければと思いました。感謝と人を許す気持ちを持って生きて行かなければなりませんね。(ちなみにクモ膜下で意識がなくなる瞬間はまったく痛みは感じませんでした。死ぬ瞬間は痛みはないと思います。)

この世に生まれてきた限り、100%死から逃れられない

この世に生まれてきた限り、100%死から逃れられない

この世の生き物、いや焦点がぼやけてくるので今回、人類に絞って話をすると、赤ん坊で生まれてきた段階で、死へのカウントダウンが始まっています。この地球上に何十億人の人類がいるか知りませんが、110年前に生きていた人類は今では一人も残っていません。例外なく人類の死亡率は100%です。しかし正直言って、死について考えることは怖いです。なぜ怖いか自問自答してみると、死に挑む際にはとんでもない苦痛、痛みが伴うのではないかとか、猛烈に痛い大怪我の延長線上に死があるのだから、無間地獄の苦しみを経た後に死を迎えるのではないかと思っているからということに気が付きました。しかしよくよく周りを見てみると、眠るように臨終を迎えるケースや重体でも意識不明のまま死を迎えるケースもあり、一概に死と苦痛を結びつけるのはおかしいという事にも気が付き始めました。思い返せば、故丹波哲郎氏が言っていたこととして「人間は死ぬときには、それがどんなに悲惨な事故であれ病気であっても脳から強烈なモルヒネのようなものが分泌されて痛みを感じることはない」というのがあります。話の真偽は各々がその立場にたってみないとわかりませんが、これまた勇気がでる意見です。いずれにせよこれまでの大先輩の方々や周りの連中も等しく、死ぬときは一人で死んでいくのでみんな一緒だと思うことで心も落ち着きます。またこの世に生まれてくるのは苦労をするために、あの世から修行に来ているのだという説もあります。だから死というのは自殺でない限り、この世におけるミッションを完了させた証しであるから、めでたいことだと考えることもできます。この世の死イコールあの世の生であるためむしろ大いに喜ぶべきだという考えです。そういわれてみれば、悲しんでいるのはこの世に残された人間ばかりです。死んでしまった人間が悲しいのかどうかは死者に口なしなのでわかる術がありません。あの世で喜んでいるということも十分考えられると思うのです。またあの世は精神の世界なので、思ったことは何でも手に入る世界らしいのです。例えばあの世で家が欲しいと念じれば、目の前に家が現れ、本が読みたいと思えば本が現れるらしいのです。またあの世では必要がないので食欲と性欲は次第となくなっていくらしいのです。また暑くも寒くもなくいい香りがただよっているらしく、天国も地獄もないという話を聞いたことがあります。もしこのとおりであれば、死んであの世にいくということは、パラダイスに行くようなものと思えてきます。怖いことはないんだという動機付けにもなり、むしろ物質界のこの世にいるよりも、非常に暮らしやすい世界だとも思えてきます。こういうことを総合的に考えると、結局のところこの世で一生懸命やるべきことはやっておくものなんだな、という考えに至ります。

1年前から寝ようとすると定期的に死について考えてしまう私の話

1年前から寝ようとすると定期的に死について考えてしまう私の話

私は比較的早くに身近に死を体験しました。
2歳と言えば今でも記憶が残っているくらいの時期ですし、ある程度自分で何かを考えたりし始めると思います。
そんな時期に妹を亡くしました。正直その時は死というものがわかっていませんでしたが離れ離れになるということは理解できました。
そして、小学校のころ大好きな家族を2人なくしました。
それからしばらく頻繁に死について考えるようになりました。その時に考えていたのは死ぬのが怖いということと、死んだらどうなるかということでした。
考えただけで怖くなって体調を崩し早退することが多くなりました。
中学校に入ってからは、死にたいと思うようなことが多くなりました。実際未遂もありましたが健康なまま高校に進学しました。
高校に入ってからは死にたいとも思わなくなり、次に考えるようになったのは
母や身近な人が亡くなった時のことについてです。
2歳から頭の中身は成長しましたが死とはどういうことか、そこまで理解はしていませんでした。
別れという認識ではいますがそれがどうといったことがよく分かりません。
高校を中退し、旦那と住んでいますが離れてからは特にひどくなりました。
今までなら、考えて眠れないことや何も手につかないということはありませんでしたが、1年前からひどいことが続いていました。
主に母が死んでしまったらどうしようと思います。もう二度と会えないと思うと訳のわからない感情になります。
母がなくなったら代わりはなんだとか、私もいつか死ぬが死後会うことが出来るのかと悩んだりします。
そうなると輪廻についても考え始めます。信じてはいるのですが確信はないのでそのことについての恐怖がすごいです。
結局考えすぎて母が死んで二度と会えないという本題に戻ります。
そんなことが昨日も起こりました。
最近まで一緒に住んでいた祖母があまり体調がよろしくなく、薬を1日に10錠飲んでいる話を聞かされました。
それを聞いてから、日中も死について考えるようになりました。あまり長くはないこの先の人生を毎日どんな気分でで過ごしているのかを想像するだけで死が怖くて怖くて仕方がなくなります。
旦那に対しても、年間の事故の死亡人数についての記事を読んでからバイクに乗らないでほしいとか一緒に歩くときに歩道側を歩いてほしいと思います。
ここまでの内容を読み返してみたら自分より人の命のことばかり考えているような内容になっていると思いましたが、ここまで死について神経質になってしまっているので今いる身近な人の誰よりも先に死んでしまわないと気がおかしくなるのではないかと思います。
それでも最後まで自分の命と人の命どっちもと向き合いたいと思いました。以上です。

息子が家庭を持つまでは頑張って長生きしたい

息子が家庭を持つまでは頑張って長生きしたい

夫と話していて驚いたのですが、子供の頃に親が死んだらどうしよう、一人になってしまうと心配していた時期があり、そう考えだした時期がほぼ同じで小学三年生くらいだったのです。私の場合は勝手に親は75歳くらいで死んでしまうと思い込んでいて、その時には自分は何歳になるのだろう、どうやって暮らしたらいいのだろうと本気で心配していました。夫は何故か母親が死んでいるのではないかと気になって気になって何度も布団まで見に行っては息をしているか確認していたそうです。その後大きくなるにつれ、死ぬのは当たり前だけど出来るだけ遅いといいな、と思うようになり、そのうち自分はいつどうやって死ぬのだろうと考えるようになった、という点でも一緒でした。
思い出すと面白いのですが、20代後半に婚約までしていた相手に手痛く振られた事がありました。当時海外出張続きの仕事をしていたので毎週のように飛行機に乗っていた私は、その彼と付き合っていて幸せな時期には飛行機が少しでも揺れると彼の顔を思い出して、どうか墜落しませんようにまだ死にたくない、と手に汗をかいていました。
ところが振られた後にかなり酷い乱気流に巻き込まれ、ものすごい揺れを体験したのですが、全く怖くもなく涼しい顔で座っていられたのです。あれ?私は何で全く怖くないのだろう、と思いました。きっと彼に振られて心の中に、どうでもいいや死んでもいいし、みたいな気持ちがあったのだと思います。
死についてあれこれ考える時に思う事は年齢によって全く違っていて、自分が人生折り返しの時期になった今は、高齢出産で息子がまだ小さいので息子の為にできるだけ長生きしたい、せめて息子が家庭を持つまではと思うようになりました。ただし、その場合は健康である事が第一条件です。寝たきりや病人で息子に世話になるのでは意味がありません。
また、私が死んだ後に息子があれこれ煩わしい目に合わないように、身辺整理をきっちり普段からしておこうと思うようになりました。
私の母は急逝したので、残された私にとって一番大変だったのは遺品整理でした。母自身もこんなに早く、それも突然死ぬとは思っていなかったので何も整理されておらず、
勿体ないと物をしまい込むタイプだった母の遺品は膨大な量でした。その経験を思い出し、身辺整理第一弾としてアルバム類や手紙の類を全部処分しました。
今はまだ夫や息子ともっと一緒に過ごしたいので死にたくはありませんが、その時がいつやってくるかは神様にしかわかりません。いつその日が来てもいいように、徐々に整理を
して残された者たちが困らないように、というのが今できる事ですが、それだけではなく、いつその日が来てもお互いに後悔がないようにと考えるともっと夫や子供との時間を
大切にできるように思います。

日々の毎日に苦痛を感じて立ち直れないず死を考えてしまう

日々の毎日に苦痛を感じて立ち直れないず死を考えてしまう

最近日々の生活に苦痛とこの先の暮らしに対する不安やお金の事や借金の事を考えると、とても逃げ出したくなり生きているのが嫌になり死を考える事が多くなりました。そういう気持ちになるともう立ち直れなくなり、頭の中には死しかありません。こんなに体がきつくても必死で働いているのに、仕事の量程の給料は貰えずにただただ厳しい現実。仕事に追われて自分の時間もないままに過ごしている毎日。働いても全部支払いや借金にお金が消えていき、何も残らず足りない程で支払いは遅れて電話は来るは、払い込み用紙は来るはで、それでもお金は払えない現実。必死で働いているのに自分で使うお金も全くなく、休みの日でもお金がないので毎回家で過ごす休みの日々。私はどこでもストレス解消出来ません。仕事でも上司の心ない言葉に傷つき落ち込み、気持ちの中に日々言葉にならないストレスを抱えいます。借金も返しては借りての繰り返しで、全く減らない上に返しても利息にばかりお金が取られて元金が全く減らずに、いつになったら借金が終わるんだろうと言う不安。ある程度年齢が来る前に返済を終わらせたいが目途が全く立ちません。老後のお金も貯める事も事も出来ずに、ただただ毎日仕事に追われて年を重ねていく事が苦痛になってきています。そうすると自分の気持ちの中では整理が出来なくなり、もう本当に死しか頭に浮かびません。自分の身辺整理をして本当に死のうとも考えました。このまま生きていても苦痛の日々からが抜け出せないし。何一つ自分の楽しみもなく生きていて何の意味があるのか、生きている事の意味が分からなくなります。死を考える私は弱いのかもしれませんが、人はやはり追いつめられるとどうしようもなく死を考えてしまうのだろうかと思います。何か日々の中で楽しいことが一つでもあると考えが変わるのかもしれませんが、今の私にはやはりそれがありません。働いてる以上給料もらった時位美味しものが食べたくなります。しかしそれすらも出来ない状況がもう1年近く続いています。いつになったら死を考えずに、すこしでも楽しいことが見つかる日々がくるのか見通しもないです。今のままでは老後ありません。生活できない状況ですから。本当に毎日泣いては死にたいの繰り返しで自分で自分が嫌になります。私は今の現状からただただ逃げ出したいです。だから死ばかり考えてしまうのです。自分を変えなければ何も変わりませんが、生きていきづらくしている環境もあると思っています。死を選ぶことは簡単ですが、生きていく事の方が本当に苦痛です。楽しそうに笑っている人がうらやましいです。今では自分の感情もうまく表現できない位に心の片隅に死があります。