死に対して興味があるからといって病んでいるわけではない

死に対して興味があるからといって病んでいるわけではない

昔から私は死ぬことに対してものすごく興味があります。
死んだらどうなるんだろう?という純然たる興味です。
小学生の頃に落書き帳を持たされたことがある人はいるでしょうか。私の学校では、それを持たされ、私は6年生まで好んでそれを使っていました。
それを見返したとき、小学校3年生の頃の落書き帳の中に、死んだらどうなるんだろう?ということを純粋な疑問として言っている少女の絵を描かれているのを見ました。
絵を描いてから、その言葉を絵の少女に言わせてから、もう何年も経ちましたが、疑問は解決されないままです。
だからこそ、私は死ぬことに対して興味がありすぎて死んでみたいとSNSで零したり、友人と話していて話題に上げたりすることもあります。
しかしそれを聞いたり見たりした人間から言われるのはほぼ確実に同じ一言です。
「大丈夫?」
いやいや、何1つとして大丈夫じゃないところはないぞと私は思うのですが、死んでみたいの一言はそれほど衝撃のある一言のようです。
別に仕事や対人関係が上手くいかないから死にたいと言っているわけでもないのに、心配されるというのは、死にたいという一言にそれほどの威力があるからなのでしょう。
しかし考えてもみてください、臨死体験の記事が読まれたり、そういった本が書かれたり、死にかけた人間の体験談のようなテレビが放映されたり、そういったことがあるということは、つまりは死に対しての興味がある人間が、結構な人数いるということではないのでしょうか。
他人の言ったことが信じられないというわけでもないのですが、本当に自分もそうなるのだろうかと思っても不思議ではないはずだと思うのです。
例えば先祖の姿が見えたという話。
私は母方の祖母以外の姿を全く知りません。
それでも父方の祖父母や、母方の祖父の姿が見えるのだろうか。それともやはり、自分の中で死んだと思ったから、死んだ人物の姿が夢のように頭の中に浮かぶというだけなのだろうか。そういったことが疑問として頭の中に浮かぶのです。
他にも死んだ後にはどうなってしまうのだろうかという疑問があります。
幽霊という存在があると言われたり、天国や地獄という存在があると言われたり、前世というものがあると言われたり、死んだ後があるように言われます。
その一方で死んだら無に還るのだと言われもします。
どちらが正しいのかは死んだ人間にしかわかりません。
自殺した人間はこの世に未練があるから残ると言われるけれど、この世に未練も何もなく興味だけで死んでしまったら、本当に幽霊になるのだろうか。
自殺をしたら天国には行けないと言われるが、本当だろうか。地獄に行ったとしても、どういった罪で咎められるのだろうか。
死んだ後に覚えていられないとしても、今の自分のように自分というものが新たに生まれるのだろうか。
無に還るとしたら、眠るときのようなものなのだろうか。
疑問は湧くばかりで尽きません。
こういった興味だけで死にたいと思う人間はいるのです。
今すぐ死ななくても良いかと思うから、死にたいと言いつつ死なないだけで。
このような人間が私だけではないと思うので、死んでみたい、死にたいと言ったとしても、今すぐ死にたいのかと思って心配する必要もないんじゃないかなぁと私は思います。

もし死んだらどう感じるの?死後の世界は存在するの?誰もが感じたことがある疑問まとめ

もし死んだらどう感じるの?死後の世界は存在するの?誰もが感じたことがある疑問まとめ

 誰もが考えたことがある、自分が死んだらどうなるのか?という疑問。
人によって考えがバラバラだと思いますが自分自身がどんな時に思ったのか、死んだ感覚としてどのようになるのか独自で感じたものを紹介していこうと思います。
死を考えてしまうときというのは、大抵落ち込んだ時だと思います。友達、職場関係などに傷がつくと自然と思ってしまいますよね。自分自身もそうです、仕事のミスで死んで逃げてしまいたい、リセットしたいなど誰もが考えたことがあると思います。逆にとても幸せの時、ずっとこの幸せが続けばいいのにと思う瞬間がありますよね。その時に死んだらこの記憶はすべてなくなってしまうのかという不安感に襲われます。誰もが一度は感じる感覚だと思います。
 もし死んだら自分の意識はどうなるのかという疑問が多いです。しかし、古来から死後の世界があり魂はその世界に還ると伝えられています。誰もが天国、地獄があり良い行いをした人は天国へ、罪をおかした人は地獄へ世界中がこの考えに固まっています。日本にも神様が存在し、海外では悪魔も存在すると伝えられています。世界中の人々が死に関して同じような感覚を持っているということになりますね。
死に関して調べていると面白い項目が見つかりました。自殺したものは必ず地獄へ堕ちるという項目です。これは、知っている人、知らない人様々だと思いますがとても面白い項目だと思います。なぜ人を殺していないのに、地獄行きなのと考えている方もいると思います。理由は他人を殺してはいないけど、自分自身を殺している。つまり、人を殺しているとつながるためです。これをなるほどと思いました。生を受けてこの世界で人として生きている自分が自分の手で殺してしまう行為は罪となるのです。なので実際、自殺を考えた人もこの項目をみて自殺が怖くなり、今も頑張っていると聞きますし、自分自身も死について考えた時自殺は嫌だと強く思うようになりました。実際に死んでみないとわからない世界にはなるのですが、こういう話もあるということで胸に留めておいてください。
 実際に病院で死後の世界を見てきたということでニュースになっていますが、あれは本当なのかという疑問です。ある記事で見たのですが数人の物理学者が霊的存在は認めないと語っていたのですが、こういう事例が発生してから認めるようになりました。実験の結果が認めることになったのかはわかりませんが私は脳の幻覚だと思います。なので死後の世界はあると思わないですし、死んだときの感覚は朝目覚めない永遠の睡眠だと考えています。もし、死後の世界があると考えるのであらばこの世界が死後の世界の階級を結びつける牢獄だと思います。

死ぬのは怖くないの?という質問に対して私なりの答え

死ぬのは怖くないの?という質問に対して私なりの答え

死ぬことは怖いか怖くないかといわれれば、もちろん誰でも最初は、怖い、死にたくないと答えると思います。私も子供のころは、死ぬのなんて嫌だ!!。一生若いまま生きていたいって真顔で言っていました(笑)。でも最近、長いこと生きてきて(といってもまだ、20代ですが)死についていろいろ考えた時、健康であろうが、病弱であろが、生き続けることのほうが、死ぬことよりも何倍も怖いのではないかと考えるようになりました。
子供の頃は、いつかは自分の命が土に代わって草木の養分になるって親から聞かされても、いまいち実感がわかず、すっごい先のことのように考えてしまっていたんですよね。なぜか自分は根拠無く、大きな怪我や病気もすることもなく、80ぐらいで安らかにいけると(たぶん、僕だけじゃなく、大多数の人にも経験あると思いますが)死ぬことに関して、まるで他人事のように感じてしまうんですよ、若いうちは。でも、当然社会とはそんなに甘いものではなく、体中ぴんぴんしてても、不幸な事故に巻き込まれて命を落とすこともあるだろし、運悪く通り魔や殺人鬼に遭遇し、ブスッと刺されて殺されるかもしれない、突然何の予兆もなく、ガンや難病にかかり、苦しみながら死ぬかもしれない・・。死ぬときって案外いきなり、何の余興もなく、突然来るものなのですよ。今生きている人は、自分には関係ない、自分はまきこまれないって根拠なく、豪語しますけど、そういうのって案外身近にあるもので、しかも襲われるときはほんの一瞬。目が覚めたら、空から自分の遺体を見下ろしてるかもしれない。治安がよく、医療制度も充実している我が日本国においても、何の問題もなく、天寿を全うする人って限りなく少ないんですよ。
でも、だからといって死にたくないから毎日びくびくしながら警戒心強くしながら、長生いしたいかと聞かれたらそれは疑問ですよね。当然、長くいきたいことに変わりはないけど、自分が死ぬ可能性がある選択を切り捨てて行くなんて不可能ですから、そうやって消去法であれもだめ、あそこもいかないってなると、何もできないし、そんな人生楽しくないと思うんですよね。最近の世情がそうで、子供が死んだり、事故を起こす可能性のある遊具や遊びは禁止にしようといって、あれも撤去、これも禁止、これでは子供がかわいそうです。娯楽って危険だから楽しいものだし、仮にそれで命を落としても、不謹慎ですが、楽しいことしながら、死ねるんだからよかったんじゃないの?と思うわけです。
自分、無宗教で、神様もあの世も信じてないんですが、たまにこういう話をすると、宗教を信仰してる人から「あなた、そんなんで、自分が70~80なった時どうするの?」って聞かれるんですよ。どうやら宗教信仰してる人っていうのは、死んだあとも意識があり、ずっと自我が保たれて、肉体のない世界にいけるとおもっているらしいんです。
ですが、これは宗教の死は救いという考え方に矛盾していることになるんですよ。というのも、多くの宗教では、死は救いなりを掲げて、自殺以外の多くの死を肯定しておりますよね。(イスラムの自爆テロよろしく)でも、死は救い=生からの救いと考えるなら、肉体が滅びるだけでなく、精神や自我もなくならないと救いにならないからです。だって体がなくなっても、精神や魂が残ってたら救いにならないじぁないですか。(意識がある限り苦しみがあるわけですから)だから、キリスト教やイスラムの信者で、生から解放されたいっていってる人がいても、あの世とか神の世界とか口にする人は、本当は死ぬのが怖い、まだ生きていたい人なんだなぁと思うようになった。
本当に死にたい人はあの世すら否定すると思いますよ。せっかく楽になれたのに、死んだ後も意識が残っているなんてそれこそ地獄だろうし。僕も自分がなくなる時は、パソコンの充電が切れて画面が真っ暗になるような、コンセントを抜かれて、電源を落とされて動かなくなる液晶テレビとか、そういう最後を迎えたいんですよ。死ぬのって本当の意味ではそういうことなんだと思う。だから僕が、「死ぬのが怖くないんですが?」と聞かれたら、「死んだ後とも意識が残ってる方が怖い。」と答えることにしました。

人間が平等に与えられている結末である「死」について

人間が平等に与えられている結末である「死」について

人間だれもが生まれながらにして決められている運命があります。それが死です。
人間は死ぬことで一生を終えていきますが、生きているうちはあまり死ぬことに関してしっかりと考えないものです。
それはなぜかというと、死にたくないからです。死にたくないから、死ぬことについて考えることを避けてしまうのです。
ですが、私個人の考えとしては定期的に死と向き合う時間は必要であると考えます。
それはなぜかというと、死について考えたらそのあと少しだけあなたの生き方が変わると思うのです。
死と向き合わなければ生と向き合うこともないのです。
一日のうちに少しだけでも、いつ自分が死ぬのかわからないと考えれば、自ずとまわりの人間や自分をより大切に、一秒一秒を大切に生きるだろうと思います。
ただし、死について考えることで悲観的になってしまえば、それはそれで元も子も無くなってしまって逆に精神面に良い影響は与えません。
なので、私は映画や小説、漫画などを通して死について考えるようにしています。
物語の中でなくなっていった登場人物に感情移入していくことで、個人的にはかなり冷静に死と向き合うことが出来ます。
物語ごとの世界観や設定を捉えながら、その世界での生きる理由、生き延びていく理由などを考えたり、その世界で死なないためにどういった生き方をすべきなのかを考えたりすることも多々あります。
また、こういった考察をしていくことで、一つ一つの物語がより一層楽しめます。
そういった理由もあり、私は登場した人物が死んでゆく物語を好んで読んだり見たりしています。
出来る限り自分を死と近づけて、生と向き合い、今日や明日の生き方の質を少しでも高めていくことはとても重要なことだと考えています。
そういった経験をしていると、段々とわざわざ死について考えることがなくても、生について深く考えることができ、将来に対しての考え事や不安などがスムーズに解決されていきます。
また周りの人間に対しても考え方が変わり、より一層、友人や家族を大切に思いながら生きていこうという気持ちになれます。
今日を幸せに生き抜くことで、明日を呼び込んでいく。そんな毎日が続けば日々が幸せに感じるはずですし、周りの人間も幸せに出来るはずです。
そういった理由もあり、私は定期的に常に死に関係している物語を吸収していってます。
死の直前になって、大切なものに気づくのでは、相当な手遅れです。
平凡な毎日の中でも大切な人を思い、元気に生きていくことを私は心がけています。
決して死を考えたりすることはネガティブなことではなく、むしろポジティブにつながるものだと私は考えます。
生きている時が怠慢であると思ったその時に、死について考える。この作業が大切だと私は考えます。

「死にたいと思う人」、「生きたいと思う人」についての私からの観点

「死にたいと思う人」、「生きたいと思う人」についての私からの観点

・死にたいと思う人
  まず、「死にたい」と思う人は、どうして「死にたい」と思ってしまうのか?ということを挙げたいと思います。
私が個人的に調べてみたものですが、例を挙げていきたいと思います。
「いじめられていて誰にも相談することができず、誰にも助けを求めることができずに一人で抱え込んでしまい死にたいと思う人」
「借金が多く、もう返すあてがないのに、取立てが厳しく死んで楽になろうと思う人」
「自分の存在意味がなんなのか?自分は今生きていて、なにか意味があるのか?と思い、死にたいと考える人」
「親に小さい頃から大切にされずに、愛情を感じられずに育ってきて、もう死にたいと思う人」
このような例が多くありました。
死ぬことによって、自分が求めていることは、手に入れられるのでしょうか?
「死ぬ」ということは、「無」ということではないのでしょうか。
死ぬことを考えるよりも、生き抜くためには、どうしたらいいのかを考えるべきだと思います。
私は、小学5年生の時にいじめにあいました。
その当時は、親に言うと親が心配するだろうと思い、家では平然を装い生活していました。
その時、親が優しく接してくると、涙が出そうによくなりました。
しかし、もう死にたいなどは、一切考えたことはありませんでした。
だから、実際に死にたいと考える人の気持ちは完璧に分かるものではありません。
なので、「勝手なことを簡単に言うな」と思われるかもしれません。
しかし、周りをよく見渡してください。私たちの知らないことがたくさんあります。
私の身の回りにもそういった人がいました。その人は、47歳の時「子宮がん」と診断されました。
しかも、最悪にも、発見したときにはすでに、末期でした。長くても、半年もつかどうかという診断でした。
息子の結婚式が一年後に控えていました。その人は、「息子の晴れ姿を見るまでは」と余命よりも半年も長く生きました。
そして、息子の結婚式を終えてから二週間後に他界しました。まだまだ、息子の子供も見たかったはずだと思います。
この話は、私の本当に身近で起きた出来事です。これを聞いて、どう思いましたか?
死にたいと思っている人は、生きたいと思っている人に、「私は~の理由で死にたいと思っています。」と言うことができますか?
なにか一つでも、自分が夢中になれることや、信頼できる人、落ち着ける場所、こういったことを見つけることで、
少しは死にたいと思う気持ちを和らげることができると思います。
最初は「そう簡単に見つかったら、苦労してない。」と思うかもしれませんが、なにか行動しないと始まらないと思います。
死んだ後の世界など、誰にもわかりません。死んだほうが楽だと考えている方も多いと思いますが、
私はそうは思いません。もし、死んだ後の世界に行ったとした時に、今よりも、もっともっと辛く、過酷な世界だったら、どうしますか?
その世界では、もう死ぬこともできずに苦しいだけ、死ななかったよかった、と思っても手遅れだと思いませんか?
それなら、今を必死に生き、今をどう快適に生きていくかを考えていくべきだと思います。
勝手な発言も多いかもしれませんが、これが私の意見です。

死ぬとは、宇宙のエネルギーにかえること。

死ぬとは、宇宙のエネルギーにかえること。

私は子どもの頃からよく寝る前などに、ベッドの中で「死ぬ」ということについて考えていました。
死んだらこの意識はどうなるのか、そもそも生まれてくる前、自分はどこにいたのか。そして、どこからどうやって生まれてきたのか。
考えれば考えるほど怖い気持ちになって、こんなことならいっそ最初から生まれてこなければこんな恐ろしい思いをせずにすんだのに・・と思ったりしていました。
また当時は、親の影響で手塚治虫さんの『火の鳥』を読んでいたせいか、輪廻もなんとなくあると思っており、
永遠に生まれかわるなんてそれこそ何度もつらい経験をしなければいけないので、なんて恐ろしいことだと思っていました。
今はそのころの死生観とは少し違って、死ぬというのは、宇宙にエネルギーとなってかえっていくことなのではないかと考えるようになりました。
そもそも産まれる前のずっとずっと長い間、個人が何かに生まれ変わり続けていたとは私はとても考えられないので、
人は死んだら自分と似た波動やエネルギーを持つ魂と混ざり合い、またらせんのようなものを描きながら宇宙というエネルギー全体を
形作る宇宙の一部になるのではないのかな、と今は思っています。
具体的には、誰かの臨死体験が記憶に残っているのかもしれませんが、死の瞬間が訪れたらまず、最初は目の前がまっくらになると思います。
それからだんだんと光のようなものが見え始め、その光の方へと人は導かれ(ここの光とは朝日のようなイメージです)、
光にあたると同時に、その光の中にその人自身が取り込まれ、溶けていく気がします。
この光に溶けていく、光にかえっていく瞬間は、なんの恐れも痛みもない、至福の瞬間であってほしいと思います。
死んだら自分というものはなくなり、今愛している人達とも逢えなくなると思うとどうしようもなく悲しいですが、
もともとみんな宇宙のエネルギーの一部だとしたら、死んで似た魂の人とは混ざり合うのですからきっと寂しくないはず。
そして、近い魂だからこそ友人や家族としてこの世で会うことができたのではないでしょうか。
マンガ『火の鳥』にもありましたが、永遠に生き続けるなんてそれこそ苦しく孤独なことだと思います。
人よりも早く死ななければならないとしたら、「死」を受け入れるのはとても難しいと思いますが、
老人と言われる年齢まで生きて、子供たちが独立し、愛する人や友人も死んでいく中で迎える「死」だとしたら、
少しは穏やかな気持ちで受け入れられるのではないかと思います。
人間を含め動物には、生きたいという本能的な欲求があると思うので、「死」への恐怖は一生消えないかもしれませんが、
理性の部分では、「死」を受け入れられる、受け入れたいと今の自分は考えています。

死にたいと思ってもあきらめないで、誰かが手を差しのべてくれるものです

死にたいと思ってもあきらめないで、誰かが手を差しのべてくれるものです

 死について初めて考えたのは38歳の時です。ある日突然左の手足が動かなくなり、病院に行って精密検査を受けたところ頸椎の3,4,5番目の辺りの脊髄が変形していて神経を圧迫しているための症状で、手術しか治す方法は無いと言われました。早速入院し頸椎の手術に備えることにしました。主治医の先生からの説明は、頸椎の3つの後ろの突起を削って平らにし、それぞれの骨を切り開いて脊髄の圧迫部分を開放してやる術式で、手術の時間が長時間に渡るのもさることながら、難易度の高い手術で100%成功するとは断言は出来ませんとはっきり言われました。
 しかしながら回復する方法がこれしかないということなので、正直死を覚悟して手術を承諾したのです。手術当日、ストレッチャーに乗せられ家族に見送られながら手術室に向かっている時、家族の顔を名残惜しく見た記憶が今でも鮮明に残っています。手術室に入り手術台に仰向けになって「これから麻酔をします。」という言葉を聞いたのが最後で、次に気がついた時はベッドの上でした。「○○さん、分かりますか。私の手を握って見てください。」という先生の声が聞こえました。「ああ生きていたんだ。」無意識のうちに手を握ろうとするのですが、力が入っているかどうかわかりませんでした。そのため手術をしたら不自由な手足が直ぐにでも治るものと思い込んでいた私はがっかりしてしまいました。
 「○○さん、直ぐに治るものではありません。これからリハビリをして段々直してきましょうね。」と私の気持ちを見透かしたように先生が言いました。それから3週間、私は首が動かないようにベッドに固定され、洗面、食事、着替えとも全て寝たまま行いました。そして3週間後、いよいよベッドから起き上がれる日がやって来ました。先生と看護師さんがやって来られて、電動ベッドをゆっくり起こします。半分程度起きた時でしょうか、突然クラクラっと目まいがして思わず戻しそうになりました。「しばらく寝たきりだったので、慣れるまで目まいがします。」とのことでした。
 何日かして目まいもしなくなり、いよいよベッドを出て歩いてみることになりました。首を固定するための装具を付けた後、そっと立ち上がり杖をついて歩こうとしました。ところが思うように歩けないのです。先生が「○○さんの場合は脊髄の変形期間が相当長期に渡っていたので、そう簡単に元には戻らないと思います。時間をかけて直して行きましょう。」とのこと、「えー、話が違うのでは。」と思いましたが、どうにもなりません。とにかく治りたい一心でリハビリを一生懸命やりました。でも結局入院期間中、退院後も元のように歩いたりつかんだりすることは出来ませんでした。
 仕事を休職してから1年半は傷病手当金でどうにか生活は出来ますが、問題はその後仕事が出来ないと家族はどうなるのか、そう思ったら保険金のことがチラっと頭をよぎりました。もし自分が死んだら家族にマンションと保険金が残せる、それで生活が出来るのではないかその時は本当にそう考えました。
 今思えば笑い話のようですが、その後障害者年金を受給、傷病手当金終了後は失業保険を1年受給、そしてその後は障害者に理解のある会社に就職し、何とか子供達を育てることが出来ました。世の中何とかなるものです。死にたいと思ってもあきらめないでください。誰かが手を差しのべてくれるものです。
 

仏教における死生観から学ぶ、死への恐怖を克服する方法

仏教における死生観から学ぶ、死への恐怖を克服する方法

人間は死を恐れるものです。人間に限らず、動物、虫、植物でさえも死を恐れます。
しかしながら、種族に限らず、生き物はすべて死へ向かってその生を消費していきます。
その道程で、動植物は子孫を残すことを生の目的とします。その過程において、自然環境に適応するために進化をしてゆくわけです。
対して人間は、子孫を残すことはもちろん、何かを残す、何かを成し遂げることを人生の目標とします。
それゆえに、人間は他の動物とはことなり、自己実現に対する欲望を持っています。ゆえに、人間の死に対する恐れは、自然界のそれだけではなく、「社会的な死」も包含します。これが、人間が「自殺」、本能に逆らって自らを殺すことができる理由の一つです。「社会的な死」を宣告された場合、もうその人生は「消失」したことに等しいのです。
これは明らかによくないことであり、倫理的な問題はもちろん、自然の摂理に逆らっているとさえ言えます。
もともとは次の日を生きるために行動し、働き、家族を守ってきた人間のあるべき姿ではありません。
ここは、先人の知恵に立ち返って、もう一度自分を、人生を、人間を見つめなおしてみるべきではありませんか。
日本人が「死」について考えるときは、「仏教」なくしては考えることはできません。
普段信仰していない人でも、やはり死=仏教という思いがあるのです。
これは日本人が、日本の歴史が仏教とともにあったことに由来します。
古来から我々日本人は多かれ少なかれ仏教の影響を受けているのです。
では、仏教における「死」はいかなるものなのでしょうか。
それを考えるためには、仏教の根本概念を知らなければなりません。
仏教における最終目標は解脱です。修行も、断食も、お経も、その他すべて解脱するために行っているのです。
聞きなれた言葉でいうと、いわゆる成仏です。これは魂が天国、浄土へ行くことではありません。
ブッダが言ったように、人生は生老病死、生きることでさえも苦しみであるといいいます。
生きているときに成仏をすることを即身成仏といいますが、即身成仏が、生前に修行などで徳を重ねることで、生まれる→死ぬ、のらせんから抜け出すことが解脱なのです。
解脱するには何も厳しい修行を重ねたり、大金を寄付する必要はないのです。
解脱するのに必要な要素、それは諸行無常を知ることです。
金、名誉、名声・・・それらはいつかは朽ち果てて消え去ってしまいます。それは、また新たなもので満たされ、また流れ、川のように流転し続けます。
それは、失敗、不名誉についても同様です。
あなたが犯したミス、失敗は長い目で見れば全く、大したことのないものなのです。
さらに広い視点で見れば、それはもはや「無い」ともいれるほど、世界の流れの中では些細なものなのです。
さて、これで「生きること」は怖くなくなりました。
そして、生きることと死ぬことは、らせんにおいて同値です。
自分の人生を恐れなくなったそのとき、人間は死に納得し、受け入れることができるのではないでしょうか。

死をどのようにとらえるか、生をどのようにまっとうするか

死をどのようにとらえるか、生をどのようにまっとうするか

人はいつか必ず死にます。
死とはなんなのか、死のあとはには何が待っているのか。
これは古代から人間の永遠のテーマともいえるでしょう。
死を考えることにどんな意味があるのか、死とは、私たちに何を教えてくれるのでしょうか。
死の先を語れる人は、この世には誰もいません。
誰も知らないはずなのです、死の世界から戻ってくることはできないとされているからです。
果たして本当にそうであるのかは別として、死は誰にも語ることのできない世界の入り口であると言えます。
日本にも昔から、死後の世界を極楽浄土で過ごすための宗教が存在してきました。そしてそれは現代でも同じです。
人はそれほどに死を恐れている、ともいえます。しかし一方で、死後の世界に希望を見出しているともいえるのです。
現世はいつの時代も、生きにくい世の中。どこかに救いを求めている人は大勢います。
誰も知らない死後の世界は、救いを求めるのにはとてもいいのではないでしょうか。
そのために命を絶つ、ということではなく、現世でどのように過ごしたかによって死後の世界が決まるという考え方は
現世での生をまっとうするためにはとても有効な考え方であると言えると思います。
私自身は、死後の世界を信じてはいません。
人は生き物、物体であり、この命が尽きるときはこの体が動かなくなる時。
魂は脳に由来しているから、魂が生き残るということもないと思っています。
しかし、この私の考えは、人間が目に見えるものしか信じないという浅はかな考えで成り立っているものです。
魂という存在が見えないから、脳という見えるものに帰着している。
幽霊が誰にでもみえるものではないから、ないものであると考える。
しかし、人間に見えている光は、ごくわずかです。
人間の目には映らない世界が、同じこの世界の中に広がっていると考えるのは必然です。
それを否定していてはいけないとも思っています。
死を考えることは、生きている私たちに多くのことを与えてくれます。
当たり前に来る明日が来ない。明日が当たり前だからこそ、私たちは退屈に毎日を過ごし、後悔を先延ばしにし、
ため息をつきながら今日という日を過ごしている。
しかしそんな生活は、誰もしろとは言っていない。
人間が勝手に、退屈に毎日を過ごしているだけだ。そんな退屈で意味のない毎日を彩るために、死の存在は不可欠だ。
余命を宣告された人が、いろいろなことをやってのけていくというストーリーもあるが、
そういったことなのだと思う。
我々の命は限られている。しかし、そこに気づかずに過ごしていってしまうのがふつうである。
たまには死を意識して、自分の生のあり方について問いただしてみるのも、人生を豊かにしていくためには必要なことであろうと思う。

「メメント・モリ」―――死ぬことを忘れるな

「メメント・モリ」―――死ぬことを忘れるな

「メメント・モリ」ということばを昔教わった。ラテン語の警句で、日本語に訳せば「汝、死を想え」や「死ぬことを忘れるな」とかいったことばになる。2000年頃の洋画や、某機動戦士アニメにも登場するくらいには有名なことばであるが、改めて取り上げたい。
天災地災、ブラック労働、異常気象、突然の事故、そして事件……今の世の中、どんなに健康で、金銭的な問題もなく、順風満帆に生きていようと、そしてどんなに危険から回避していようと、いつ何時どうやって死ぬかわからない。たとえば、道を歩いていただけで通り魔に刺されたり、大地震で建物の下敷きになったり(ちなみに首都圏の築50年のアパートに住む筆者は地震のたび戦々恐々である)、偶然乗った飛行機がハイジャックされて自爆テロに巻き込まれたり、市街戦を繰り広げるマフィアの流れ弾に当たったり……はさすがに日本では可能性が低いであろうか。何はともあれ、生きている限り、突然やってくるかもしれない死から逃れる術はないのだ。
生きている者にとっての「死」の警句。意味の捉えかたはいろいろある。
今、どれだけ絶頂の有頂天にあっても、幸福であっても、いつかそれはなくなる。たとえ苦境で歯を食いしばっていたとしても、それもいずれ自分とともに終わることなのだ。あとには何も残らない、そのことを忘れるな。人生のはかなさ、むなしさをも覚えさせることばだ。とくにキリスト教世界では、この世での娯楽や贅沢の無意味さを指摘する意味合いで考えられるようになった。たしかに、いずれは必ず終わる現世での苦しみを耐えて徳を積み、死によって救ってもらおうという宗教世界にはフィットする考え方だ。
もうひとつ意味がある。
この世でどんなに徳を積み、真面目に生きたとしても、いずれ死ぬことからは逃げられない。そしてその死とは明日なのかも知れない。それならば限られた時間のなかで、食べ、飲み、とことん遊び尽くすべきなのだ。実はもともとの意味はこちらである。今よりも人の人生は短かかった時代。今よりも死は生の身近にあって、呆気なく死んでいく他人の姿もよく目にしていて、いつか自分が死ぬことにさえリアリティを持って人々は生きていたのだ。
医療も福祉も発達し、人は長く生きられるようになったが、まやかしのような強い「生」の存在感で、死の概念は少しずつ薄れてしまっている気がする。(少なくとも、今、健康で、紛争に巻き込まれることもなく順風満帆に生きられている大多数の方は。)
「汝、死を想え」、「死ぬことを忘れるな」、捉えかたは十人十色だと思う。が、ときどき自分が死ぬことを「思い出す」ことは、生きていくうえで大切で、ときに生き方も変えてくれるのかもしれない。