大好きだった母が亡くなった時に痛感した思い

母は私が二十歳の時にがんで亡くなりました。
約二年間の闘病生活でした。
働き者で体も丈夫だった母が、がんだと知らされた時、こんな恐ろしい病気が自分たち家族の身に降りかかるなんてとても信じられない思いでした。
当時、高校を卒業して姉のいる地方の都市で一緒に暮らし始めた矢先の出来事でした。

病院で検査を受けるため父に連れ添われて来た母は、痛みを和らげるために患部にアイスノンを当て、苦渋の表情を浮かべていました。
そんな母は、ほんの1ヶ月ほど前に様子を見にやって来てくれた時の母とはまるで別人のようでした。
その時に私の好物のお赤飯を炊いてきてくれた母の様子からは、病気の気配を感じ取る事は出来ませんでした。
しかし、今こうして苦しんでいる母を見ると、その時すでに何らかの自覚症状を感じていたのではないかと思いました。
検査の結果、入院手術となり、末期の状態ではありましたが無事手術を終え、約三ヶ月ほどで退院しました。
退院当時は元気な様子の母でしたが、1年後に再発、その後入退院を繰り返し亡くなりました。

母が亡くなる前日、それまで朦朧としていた意識がはっきりとして、久しぶりに会話する事ができました。
明るくユーモアに溢れていた母らしく、冗談を言って姉と私を笑わせてくれました。
しかし、それが逆に母を苦しめる事になりました。
はっきりした意識の母に襲いかかる痛みは激しく、苦しみもがく母を見て、もう早く楽にさせてあげたいと願うばかりでした。
やがて母の意識が薄らいできて、看護師さんがベットを倒した時に、母の手が柵に挟まってしまいました。
きれいだった母の手は、それまで見た事も無いほどにパンパンに浮腫みあがり、挟まれても何の反応もしませんでした。
その時、あぁ、お母さん死んじゃうんだな、と思いました。
夜が明けて、医師から臨終の時が知らされました。
亡くなった実感がまだ無かったせいか悲しみよりは、これでもう苦しまなくて済む、痛みから解放される、と安堵の気持ちの方が大きかったです。

母の葬儀を田舎で行うために、やらなくてはいけない事がたくさんありました。
父が母に付き添い車で、姉と私と伯母の三人はバスで帰る事になり、途中の百貨店で初めての喪服を買いました。
バスで約3時間、実家に着くと母はすでに布団に寝かされていました。
顔には白布、体に刃物がのせられていました。
胸の上で組まされた手はまだ柔らかく、指が上手く絡めないでいました。
その日は大勢の人達が、一晩中起きてお線香を絶やさないでいてくれました。
寝ている母の姿を見ても、もうこの世にいないという実感はまだわきませんでした。
しかし、横たわっているその体からは、今まで母だと感じさせてくれていた何かが無くなっているように感じました。
病院にいた時はまだ、お母さんだったものが今は何か違う空っぽな感じがしたのです。
焼き場に行く日は日差しが眩しいほどの快晴でした。
手術の日は台風、亡くなった日は猛吹雪と雨女だった母にしては、らしくないお天気だね、と姉と2人で笑いました。

地元に残っている友人や恩師も来てくれて、何かと忙しくあまり感傷に浸る暇がなかったせいか、初七日の法要を済ませ自宅に戻り、いつもの生活に戻ってからの方が、いろいろな思いに駆られるようになってきました。
もう少し気を付けてあげていれば、何とかできたんじゃないか、我慢強い母の事だから、父に相談した時にはかなり悪い状態だったのだろう、と後悔ばかりがわいてきました。
なにか美味しい物を食べれば、お母さんにも食べさせたい、楽しいものを見れば、お母さんにも見せてあげたいといった具合に、一日中何かにつけ母の事を考えていました。

幼少期は病弱だったせいもあり、末っ子らしく甘えん坊だった私はお母さんっ子でした。
ケンカもたくさんしましたが、大好きな母でした。
でも、母に再び会う事は叶いません。
その時、人が死ぬと言う事は、もう二度と会えない事なのだと痛感しました。
もしも母が生きていて、遠く離れた北極や南極、例え地球の裏側や辺境の地にいたとしても、私はどんな事をしても会いに行くでしょう。
でも、死んでしまったらそれはもう叶わない、どこにも母はいないのです。
死んだらもう会えない、そんな当たり前な子供でも分かるような事が、私はちゃんと分かっていなかったのです。

今、私は母の亡くなった時よりも年上になってしまいました。
自分の人生を終え、もしも母に会う事ができたなら、そんな年上の私を見て母がどんな事を言うかを楽しみに、残りの時間を後悔なく過ごしたいと思っています。

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