仏教における死生観から学ぶ、死への恐怖を克服する方法

仏教における死生観から学ぶ、死への恐怖を克服する方法

人間は死を恐れるものです。人間に限らず、動物、虫、植物でさえも死を恐れます。
しかしながら、種族に限らず、生き物はすべて死へ向かってその生を消費していきます。
その道程で、動植物は子孫を残すことを生の目的とします。その過程において、自然環境に適応するために進化をしてゆくわけです。
対して人間は、子孫を残すことはもちろん、何かを残す、何かを成し遂げることを人生の目標とします。
それゆえに、人間は他の動物とはことなり、自己実現に対する欲望を持っています。ゆえに、人間の死に対する恐れは、自然界のそれだけではなく、「社会的な死」も包含します。これが、人間が「自殺」、本能に逆らって自らを殺すことができる理由の一つです。「社会的な死」を宣告された場合、もうその人生は「消失」したことに等しいのです。
これは明らかによくないことであり、倫理的な問題はもちろん、自然の摂理に逆らっているとさえ言えます。
もともとは次の日を生きるために行動し、働き、家族を守ってきた人間のあるべき姿ではありません。
ここは、先人の知恵に立ち返って、もう一度自分を、人生を、人間を見つめなおしてみるべきではありませんか。
日本人が「死」について考えるときは、「仏教」なくしては考えることはできません。
普段信仰していない人でも、やはり死=仏教という思いがあるのです。
これは日本人が、日本の歴史が仏教とともにあったことに由来します。
古来から我々日本人は多かれ少なかれ仏教の影響を受けているのです。
では、仏教における「死」はいかなるものなのでしょうか。
それを考えるためには、仏教の根本概念を知らなければなりません。
仏教における最終目標は解脱です。修行も、断食も、お経も、その他すべて解脱するために行っているのです。
聞きなれた言葉でいうと、いわゆる成仏です。これは魂が天国、浄土へ行くことではありません。
ブッダが言ったように、人生は生老病死、生きることでさえも苦しみであるといいいます。
生きているときに成仏をすることを即身成仏といいますが、即身成仏が、生前に修行などで徳を重ねることで、生まれる→死ぬ、のらせんから抜け出すことが解脱なのです。
解脱するには何も厳しい修行を重ねたり、大金を寄付する必要はないのです。
解脱するのに必要な要素、それは諸行無常を知ることです。
金、名誉、名声・・・それらはいつかは朽ち果てて消え去ってしまいます。それは、また新たなもので満たされ、また流れ、川のように流転し続けます。
それは、失敗、不名誉についても同様です。
あなたが犯したミス、失敗は長い目で見れば全く、大したことのないものなのです。
さらに広い視点で見れば、それはもはや「無い」ともいれるほど、世界の流れの中では些細なものなのです。
さて、これで「生きること」は怖くなくなりました。
そして、生きることと死ぬことは、らせんにおいて同値です。
自分の人生を恐れなくなったそのとき、人間は死に納得し、受け入れることができるのではないでしょうか。

死をどのようにとらえるか、生をどのようにまっとうするか

死をどのようにとらえるか、生をどのようにまっとうするか

人はいつか必ず死にます。
死とはなんなのか、死のあとはには何が待っているのか。
これは古代から人間の永遠のテーマともいえるでしょう。
死を考えることにどんな意味があるのか、死とは、私たちに何を教えてくれるのでしょうか。
死の先を語れる人は、この世には誰もいません。
誰も知らないはずなのです、死の世界から戻ってくることはできないとされているからです。
果たして本当にそうであるのかは別として、死は誰にも語ることのできない世界の入り口であると言えます。
日本にも昔から、死後の世界を極楽浄土で過ごすための宗教が存在してきました。そしてそれは現代でも同じです。
人はそれほどに死を恐れている、ともいえます。しかし一方で、死後の世界に希望を見出しているともいえるのです。
現世はいつの時代も、生きにくい世の中。どこかに救いを求めている人は大勢います。
誰も知らない死後の世界は、救いを求めるのにはとてもいいのではないでしょうか。
そのために命を絶つ、ということではなく、現世でどのように過ごしたかによって死後の世界が決まるという考え方は
現世での生をまっとうするためにはとても有効な考え方であると言えると思います。
私自身は、死後の世界を信じてはいません。
人は生き物、物体であり、この命が尽きるときはこの体が動かなくなる時。
魂は脳に由来しているから、魂が生き残るということもないと思っています。
しかし、この私の考えは、人間が目に見えるものしか信じないという浅はかな考えで成り立っているものです。
魂という存在が見えないから、脳という見えるものに帰着している。
幽霊が誰にでもみえるものではないから、ないものであると考える。
しかし、人間に見えている光は、ごくわずかです。
人間の目には映らない世界が、同じこの世界の中に広がっていると考えるのは必然です。
それを否定していてはいけないとも思っています。
死を考えることは、生きている私たちに多くのことを与えてくれます。
当たり前に来る明日が来ない。明日が当たり前だからこそ、私たちは退屈に毎日を過ごし、後悔を先延ばしにし、
ため息をつきながら今日という日を過ごしている。
しかしそんな生活は、誰もしろとは言っていない。
人間が勝手に、退屈に毎日を過ごしているだけだ。そんな退屈で意味のない毎日を彩るために、死の存在は不可欠だ。
余命を宣告された人が、いろいろなことをやってのけていくというストーリーもあるが、
そういったことなのだと思う。
我々の命は限られている。しかし、そこに気づかずに過ごしていってしまうのがふつうである。
たまには死を意識して、自分の生のあり方について問いただしてみるのも、人生を豊かにしていくためには必要なことであろうと思う。

「メメント・モリ」―――死ぬことを忘れるな

「メメント・モリ」―――死ぬことを忘れるな

「メメント・モリ」ということばを昔教わった。ラテン語の警句で、日本語に訳せば「汝、死を想え」や「死ぬことを忘れるな」とかいったことばになる。2000年頃の洋画や、某機動戦士アニメにも登場するくらいには有名なことばであるが、改めて取り上げたい。
天災地災、ブラック労働、異常気象、突然の事故、そして事件……今の世の中、どんなに健康で、金銭的な問題もなく、順風満帆に生きていようと、そしてどんなに危険から回避していようと、いつ何時どうやって死ぬかわからない。たとえば、道を歩いていただけで通り魔に刺されたり、大地震で建物の下敷きになったり(ちなみに首都圏の築50年のアパートに住む筆者は地震のたび戦々恐々である)、偶然乗った飛行機がハイジャックされて自爆テロに巻き込まれたり、市街戦を繰り広げるマフィアの流れ弾に当たったり……はさすがに日本では可能性が低いであろうか。何はともあれ、生きている限り、突然やってくるかもしれない死から逃れる術はないのだ。
生きている者にとっての「死」の警句。意味の捉えかたはいろいろある。
今、どれだけ絶頂の有頂天にあっても、幸福であっても、いつかそれはなくなる。たとえ苦境で歯を食いしばっていたとしても、それもいずれ自分とともに終わることなのだ。あとには何も残らない、そのことを忘れるな。人生のはかなさ、むなしさをも覚えさせることばだ。とくにキリスト教世界では、この世での娯楽や贅沢の無意味さを指摘する意味合いで考えられるようになった。たしかに、いずれは必ず終わる現世での苦しみを耐えて徳を積み、死によって救ってもらおうという宗教世界にはフィットする考え方だ。
もうひとつ意味がある。
この世でどんなに徳を積み、真面目に生きたとしても、いずれ死ぬことからは逃げられない。そしてその死とは明日なのかも知れない。それならば限られた時間のなかで、食べ、飲み、とことん遊び尽くすべきなのだ。実はもともとの意味はこちらである。今よりも人の人生は短かかった時代。今よりも死は生の身近にあって、呆気なく死んでいく他人の姿もよく目にしていて、いつか自分が死ぬことにさえリアリティを持って人々は生きていたのだ。
医療も福祉も発達し、人は長く生きられるようになったが、まやかしのような強い「生」の存在感で、死の概念は少しずつ薄れてしまっている気がする。(少なくとも、今、健康で、紛争に巻き込まれることもなく順風満帆に生きられている大多数の方は。)
「汝、死を想え」、「死ぬことを忘れるな」、捉えかたは十人十色だと思う。が、ときどき自分が死ぬことを「思い出す」ことは、生きていくうえで大切で、ときに生き方も変えてくれるのかもしれない。

死は自分の身近にある。自分の死はずっと先の未来だと思い込んでいましたが、違うのかもしれないと思うよ

死は自分の身近にある。自分の死はずっと先の未来だと思い込んでいましたが、違うのかもしれないと思うようになりました。

少し前のことですが、数年ぶりに以前同じ職場の先輩に再会する機会がありました。
会わなかった期間が長かったこともあり懐かしい思い出ばなしから始まり、すぐに会話はあちこちへ飛びました。
その中で四十代の彼の口から飛び出したのは私にも結構衝撃的な話でした。
彼の同窓会での話しです。
かなり久しぶりの同窓会、学生時代とは違い誰もが年を取り、すぐには誰かも気付かないほど顔つきがかわり老けてしまった人もいたそうです。
四、五人が輪になり話しが始まった所で出たのは、仲良くはなかったけれど名前と顔を知る同級生が亡くなったという話でした。それも既に亡くなっていたのは一人ではないらしいとのこと。
先輩の学校の一学年が何人かはわかりませんが、その年代で同窓会をすれば、数人が病気などでこの世を去っているという事実でした。
普段から会社や家庭で、年のせいか体の不自由さが出てきた、健康を扱った番組が気になって観てしまう、CMの健康サプリの宣伝を無視でなくなった、などと笑い話とともに会話に交えることは多くなっていたようですが、その場面で具体的な数字が出てきたことは大きなショックだったそうです。
まだまだ働き盛りの年代です。もう少し先だったはずの死というものが、急に身近になった瞬間です。
先に逝くのは自分の親であり、自分はその時何ができるのか、介護が必要になった場合はどうするのか。一番身近だったのは、自分より年長の人間の心配と、それによって自分がどう動けるのかという問題だったはずが、自分自身の問題として向き合う必要があると気付いたのです。
次の同窓会にはどれだけの人が亡くなっているのだろう、もしかしたら自分だってその中の一人に入ってしまうかもしれません。今は目の前で笑っている友人たちも、その時にはいなくなっているかもしれません。その確率は決してゼロではないのです。
終活、エンディングノートという言葉があります。
終活はお墓の準備や、身辺整理。エンディングノートは終活の中の一部です。ノートは書店にも複数売っているので、既に一般的になっているもののようです。
それは自分の最後をどう迎えるか、残った家族に自分の意思を伝えたり、葬儀の意向を残したり、預貯金の明細を書き、遺族が困らないようにするための物であり、これまでの自分の過去を振り返り整理するための意味のある物です。
二十代、三十代、四十代ではそれを用意するには早すぎると思う方もいると思いますが、人生何が起こるかわかりません。若くして事故や病気で亡くなる方はいるし、自分だけは大丈夫と言い切ることはできません。
少なくとも結婚して家族が増えたのなら、少し考えてみるべきなのかもしれないと、私も先輩の話を聞きながら、自分の死、その後のことなどを考えるようになりました。

生死観ってすごく難しいことの様だけど、実は簡単な事。

生死観ってすごく難しいことの様だけど、実は簡単な事。

生死観って事には子供のころから興味が尽きなくて、ずっと考えていたことだったと思います。小学校5,6年の時なんかは、良く犬の散歩をしながらも自分が死んだら全てが無くなって、じぶんの存在が消滅して、今の意識も無くなるのではないか?そうなったら一体どうなるんだろう?自分は、自分という者でなくなったら一体何になるのだろう?あるいは自分がもしそのまま意識を保って生き続けたとしても、宇宙がその寿命を終わらせようとするとき、一体どうなってしまうのだろう?終わったら、どうなるのだろう?などと、ひとしきり考えては恐れおののいていました。
 今の自分はそれに明確な答えがあるわけではありませんし、もしかしたら自分という者がこの一生のみを生きる存在なのかも解りませんが、少なくとも僕は自分の魂ってものが連綿と続く者の中に織り込まれていて、輪廻をとおして少しずつ良くなっていく存在なのだと考えています。そして、その魂にデザインされた出来事がこの世の中で僕らの身の回りに巻き起こりながら、オリジナルの人生を一つまた一つと作り上げてるんじゃないかと思うんです。
 そう言う意味では、僕、という個人の意識というのは次の人生では消えてしまうような存在なのかもしれませんが、それとは別に僕の中心に流れる魂、と呼ばれるようなものは死を経験しながら存在し続け、その次の生でまた別の経験を生きながら、少しづつ拡大していくものなんじゃないかと考えるわけです。
 僕はこの考えを色々な書籍を通して読んできた知識の中から組み合わせて編み上げたわけですけれど、だからと言って死ぬことが怖くない訳じゃありません。自分、というアイデンティティが消失することは、もしもこの仮説が合っていて、魂は失われなかったとしても、やっぱり恐ろしいことだと思ってしまう訳です。ただ、何となくですが、この人生が終わった後に、自分が何であったのか、思い出す時間の様なものがあるかも知れない、とは思っています。自分というのがこの人生を生きてきた個人の事ではなく、ずっと連綿と生きてきた魂の事を指すという事、そして、その自分が存在するのであれば、個人としての自分は消えてしまって大丈夫だと実感できるような瞬間、そういうものが用意されてるんじゃないかと。
 まあ、希望的楽観に過ぎないと言われればそれまでなんですが、それでも死が終わりでは無い、という事については、何となくですが、僕は楽観的でもしかすると死ぬこと自体はすごく素晴らしい経験をもたらすのかもしれないとさえ考えています。
 だからと言って積極的に死にます、とは全然思いませんが。多分、この人生を生き切ってこそ、その死ぬ瞬間の「全部わかった!」的な気持ちよさが生まれてくるんじゃないかなあ、なんて思います。

私が思う、個人的な死生観の考え方について

私が思う、個人的な死生観の考え方について

私は昔から動物好きです。小さいころ親に与えてもらった動物図鑑を読みあさり、その図鑑に載っている動物の名前を端から端まで覚えて、動物園に行けばだれよりも饒舌にその動物のことを説明し、テレビでやってた「野生の王国」や「わくわく動物ランド」にかじりつくように見入り、幼稚園の頃の夢は動物園の飼育員になりたい、という筋金入りのものでした。だんだん年をとるにつれて、知識や情報を多くてい入れ、現実を受け入れるとその思いは薄くなってきて、今ではそんな感情は1ミリたりとも感じなくなってしまっています。しかし幼いころに感じた動物への思いは、いまや私の死生観に多大な影響を与えています。私はペットが嫌いです。地球上にいるありとあらゆる動物はすべて、進化の過程で手に入れたあらゆる能力で、地球上の生活に適応するようにできています。しかしながら本質的な部分、いわゆる動物の本能の部分には、進化も知識も絶対勝てないと確信しています。動物には子孫を残す本能、食べる本能といった動物としての根源というか生きるしるしや意味をなすものがあります。これを満たすために後から肉付けされたのがそれを遂行するための進化した能力です。したがって本能は絶対で、それを満たすのために何とかしようとしたのが能力で、能力でどうしようもなくなったときに本能が満たされなくなれば、暴走するのだと思います。冒頭のペット嫌いの発言は、人間というただの動物が、他の生物を捕食するや駆逐するのではなく、その本能を奪い去るという動物としての尊厳を失わさせる非常に卑劣な行為だと思います。ペットの犬に服を着せるとか、猫に高価な餌を与えるとか、地球が生まれてから数億年かかって作られた動物というものの一番重要で本質的な部分をを愚弄しすぎです。
そして私たち人間も地球上に住む動物の一種です。二足歩行により知識を得、火を操り、技術を手に入れいまや地球上で一番繁栄している動物として君臨していますが、やはり所詮は人間も動物です。したがってその動物の本能こそが一番尊重されるべき場所であり、絶対になくなることがあり得ない性質なのです。これだけ文明が発達したって、本能には絶対勝てません。戦争がおこること(他の生物との縄張り争い)、性犯罪やや男女間の浮気不倫(子孫を残すこと)が無くならないのは、人間が動物だからなのです。人間は所詮地球上に生きる単なる動物の一種類という考え方が私の個人的な人生観で、それに基づいた死に対する考え方が私の死生観です。
私の死生観は前述の通り動物として生まれた以上、地球の摂理に反してまで生きようとは思わないことです。動物として生まれた以上、弱者は廃れるのです。病気やケガ、障害などあれど、自然界なら淘汰されてしまいます。そういう厳しい歴史で動物は常に生きてきました。でもそれが地球の摂理なのです。それに比べ人間は自らが動物であることを忘れ、自分たち以外の地球上のありとあらゆる生物を破壊し、感情という地球の摂理とは反する理念で死という自然発生のものを、知識と技術で取り除き、その数を飛躍的に増やし、現在もなおそれ以上のことを地球に企てようとしています。はっきり言って人間は地球にとって有害です。エコとか地球にやさしくとか言ってるのも所詮は、商売ビジネスです。地球にとって一番のエコは人類が滅びることに決まっています。その考え方は極論過ぎてだれにも分かってもらえないのですが、自然に死ぬのが一番普通です。

死にたいと思う心理とその対処法・どうにもならないとき

死にたいと思う心理とその対処法・どうにもならないとき

 ふとしたこと、もしくは人生の大きな傷や節目になってしまうような出来事、大切な人の死や、自己嫌悪、人間不信………日本人の自殺率は世界でみてもトップクラスにあるといわれています。もしかしたら経験あるかもしれません、例えば電車にホームから人が飛び込んで、学校、あるいは会社、その他待ち合わせに遅れた…といったこと。驚きましたか?舌打ちしましたか?野次馬しようと必死だったかもしれませんね。テレビで映されるどこか遠い国の戦争には同情のメッセージを述べたかもしれませんが、目の前の自殺者には少なからず迷惑、だとかその感情のほうが大きいことがあるのでは。そして1時間足らずでその”大衆に多大なる迷惑をかけたどこかの自己中”は片付けられて…皮肉なもんです。でも、彼が(あるいは彼女が)なぜ死のうと思ったのか、といったことに思考を巡らした人、どのくらいいたのでしょうか。
 なぜ人は神様だか何だかに抗ってまで死のうとするのか。
 マザー・テレサの言葉に、「人間にとって最も悲しいことは、誰からも相手にされないこと、つまりは自分はこの世に要らない人間だと思い込むこと」とあります。だとすれば、最大の不幸ともとれる死を敢えて選ぶのは、他人に助けを乞う最後の手段だと解釈出来るのではないのでしょうか。自分がこの世に存在することは世界にとってのどうしようもないロスである、もしそう考えてしまったとすれば、これ以上の自己と世界の喪失に対する唯一手段が自死に思えてしまうのも無理はありません。
 もしくは冒頭でも述べたように、誰か大切な人の死がきっかけであることも少なくはないでしょう。自分が生涯貫いて愛した人間、恋人、肉親、息子、娘、あるいはペットかもしれません、いずれにせよその誰かのいない世界に生きる意味を見出せなくなること、それが死にたい気持ちに直結することもあるようです。
 或いは嫉妬。自己嫌悪。輝いて見える人間が怨めしく見える。努力次第では解決しない、生まれ持った才能や容姿、性格。比べて比べ抜いた末に「どうしようもない」という結論を自分に下してしまったとき、ふと死を考えたりするのではないでしょうか。
 
 もしあなたがあなた一人だけで、他に何かが存在することすら知らないような世界にいたということを想像してみてください。自死を考える感情って、湧きますか?死を考えるような状況は、他人や世界との関わりの中で生まれるものなのです。もしそのような気持ちを起こしてしまうようなことがあれば、一度立ち止まって、あなたがはたしてどれほどの視線を自己の中に注いでいたか、ちょっと考えてみてはいかがでしょうか。他人や周りの世界にばかり目が向いていては、評価すらしない自己の評価が下がっていくのも無理はなかったりします。あなたは結局のところあなたでしかないのですが、それでもあなたなのです。あなたが世界に生かされているのではないことを思い出して見てください。あなたの世界に生きているのです。そう思えれば、少しは自殺感情も薄れるのではないでしょうか。
 
 どうしてもどうにもならないときは、ただ眠りの中に身を埋めること、それに限ります。眠りは死のプレテストなのです。

死ぬことを理解することは生きることに繋がる

死ぬことを理解することは生きることに繋がる

物心がついてから、私は母方の祖父が大好きでした。そのことに気づいたのは、祖父が亡くなってからのことでした。
祖父はとてもユーモアに溢れていて、祖父宅に遊びに行くと今日はどんなおやつを買ったか、どこかに隠したが見つけられるか、と、いつでも楽しませてくれました。
そんな祖父が倒れたのは私が小学生の頃でした。脳梗塞とのことで、それからは入退院を繰り返し、そして、ついに祖父は左半身が麻痺してしまい、施設に入所しました。それから数年後、祖父は亡くなってしまいました。私はこの時、初めて、「死」というものに直面しました。
母方の祖父が亡くなり、母の実家では私が知らないうちに何もかもが整理されました。死というものは、こんなに呆気ないものなのか、と思ったほどです。母方の祖父は、それまで左半身が麻痺し、うまく話すことができず、とても苦しくて悔しかったのだろうと思います。亡くなってから思うことは、そのような苦しみから解放されたのだろうなということです。自由に動けない体で、さぞ悔しかっただろう、辛かっただろうと思います。それらのことから解放された今、きっと、祖父は自由な体を手に入れて、好きだったことが自由にできているのだろうと思います。
また、「死」というものは残された者にとっては新しく生まれた悲しさだと思います。祖父を亡くしてから、祖母は誰の目にも明らかに憔悴してしまいました。現在では多少のことは笑って過ごせるようになっていますが、当時の祖母の絶望に似た悲しみや孤独感は孫の私の目にも痛々しく映っていました。時が経つにつれ、祖母の悲しみも癒されてきているようですし、祖母は祖母なりに毎日を過ごしているようで安心しています。私にはまだ連れ添う相手はいませんが、もしも、私が祖母の立場に立った時、どのような気持ちになるのか、少し考えただけでもゾッとしてしまいました。長年、連れ添った相手が突然、この世からいなくなってしまうことなど、今の私には考えられませんし、その時、どのようなことになるのか全く分かりません。しかし、それを自分の「死」ということに置き換えてみると、残された家族はとても大変なのだろうと思います。そのことを踏まえて、今の自分に何ができるかといことも考えていかなければならないと思っています。
そして、時々、ふと、自分の「死」について考えることがあります。痛みが続く中で迎える「死」よりも、何が起こったのか全く分からないまま迎える「死」の方が良いのだろうかと思うことがあるのです。できることなら痛みを伴わない「死」を私は望みたいと思っています。
何か物事の絶頂にある時、「もう死んでもいい」と思うことがありますが、それは本当に思うことではなく、比喩表現に他なりません。ですが、苦しさの中にありながら迎える「死」よりもその方が良いのだろうと思います。
死んでしまっては何もできない、という考えが私の中にはあります。健康でいられるからこそ、考えられることだと気づいてからは、「死」というものが何なのか、よく分からなくなりました。生きているからこそ考えられる、「死」について、もっと真正面から考えられたらと思います。

アニメや漫画、ゲームで描かれる死について

アニメや漫画、ゲームで描かれる死について

私はアニメや漫画、ゲームが子供の頃から好きで、毎日の生活の中でそれらをとても楽しみにしています。
それらの中には、作中で死が描かれているものもあり、好きなキャラクターが亡くなってしまうことも多くあります。
私は作品の中で、死について触れたときに、ふとその状況を現実や自分の身の回りの状況に置き換えて、死について考えてしまうことがあります。
例えば、アニメ「魔法少女まどかマギカ」では、その独特な世界観の中で、予期せぬ死、死というものの儚さ、あっけなさというものが描かれていると思います。
主要なキャラクターが5人という、他アニメに比べると圧倒的に少ない人数にもかかわらず、そのうちの1人は物語の序盤で、ほんの少しの油断が故に、あっけない死を遂げてしまいます。また、女子中学生なら誰でも起こりうるであろう嫉妬という感情から、自己嫌悪に陥り自分自身を見失って死に至る者、その少女を助けようと必死に戦い、友情という絆のもとに死に行く者など、続々とキャラクターが死んでいきます。私はこのアニメを初めて見た時、アニメとはいえ多くの人がこうも簡単に死んでいくことに、とても驚き衝撃を受けました。人の死とてもはあっけなく、予期できないこともたくさんあるということをこのアニメを見て痛感しました。まだ子供だからといって、死なないとは限らないのです。毎日一生懸命生きているからといって、明日が今日と同じとは限らないのです。それは自分の人生にも当てはまります。
こんなにも死があっけないものだなんて、ただただ無力さを感じます。いつか訪れる自分の死も、予期せぬものであったりするのかと思うと、とても恐怖を覚えます。
しかし私は、死に恐怖を覚えながらも、それをゲームとして身近に感じ、遊んでもいるのです。
私はFPSといわれるジャンルのゲームをよくプレイします。これはシューティングゲームなのですが、簡単に言うと銃を持って敵と戦うゲームです。
それには例えば、戦場、戦争がテーマのゲームもあります。さらにオンラインのゲームですと、実際に世界中の人々とリアルタイムでゲームをすることができます。
戦場が舞台なので、もちろん相手も自分も人間の姿をしていますし、先に述べたオンラインの状態ですと、本当に相手も人間が操作しているのです。
そのゲームではチームの勝利のため、ミッションをこなすため、自分が死なないために、自分に襲いかかってくる相手に対して、
ためらいもなく銃を撃って倒していくのです。そのゲームをプレイしているときは何も考えていないのですが、ゲームを終えたとき、
いくらゲームとはいえ、こんなにも簡単に躊躇することなく、相手を撃ってはいけないのではないだろうかと思い悩みます。
もちろん、人の命は簡単に奪っていいわけがないのです。誰にもその権利はありません。そんなことはわかっています。ゲームはあくまで遊びなのです。
しかし、遊びではありますが、何年も遊んでいると段々と自分の死に対する感覚が麻痺していくのではないだろうかと困惑することがあります。
私はアニメや漫画、ゲームにて死を身近に感じることがありますが、これらはあくまでも作り物であって、現実と混同してはいけないということ、
そして死は誰にでも訪れることで、自分もいつかは覚悟をしなくてならないということ、そのいつかが予期せぬこともあるということ忘れずに、
人生を後悔しないようにと思いながら日々生活しています。

仕事で異常に追い込まれていた時、電車のホームに吸い込まれそうになった経験

仕事で異常に追い込まれていた時、電車のホームに吸い込まれそうになった経験

新人だった頃、仕事ができると見込んでもらったのはいいのですが、しごきとも思えるほどの毎日で、もう完全に疲れて切っていました。仕事以外の時間は寝ていたくて、ご飯を食べるのもどうでもよくなっていたくらいです。そんな状態では仕事もできず、しごきがイジメになっていってました。食事ができないから夜は医者にいって点滴打って、そのまま寝る生活が続き、電車のホームに立っていると、吸い込まれそうになる怖い経験をするようになりました。だからホームの中心で電車を待つようにして、電車が到着してドアが開いてから乗るようになったのですが、この吸い込まれそうな感覚がどこから来るのか全くわかりませんでした。
多分うつ病もあったのだろうと今ならわかりますが、当時は追い込まれていて自分の弱さだけが憎かったです。弱くなかったらこんなことにもならなかったかもしれないと思いつつ、仕事自体が好きだったわけでもないので、もっと落ち着いてできる仕事をしようかなと思いはじめました。仕事でうつ病になって自殺に追い込まれるところまではどうしてもいきたくなかったのです。私が高校生の時、親戚が仕事を苦に自殺した人がいたので・・・・。
仕事より自分の命のほうが大切だというのは高校生の時からわかっていたので、こんな状態になってまで仕事する必要があるのかどうか考え始めました。生きるということは苦しみながら死を考える様な状態でいいわけではないです。生きるなら希望も幸せもあるべきなのではないでしょうか。仕事で追い込まれて死を考え始めたら、それはもうその職場にいることが間違っているのではないかと私は自信を持って言えます。そこから逃げることは決して弱い者ではありません。逃げて別の所に行くのは決して楽なことではないから、逃げられる人は、そこで死を選ぶ人より強いのではないでしょうか。
自分の健康と幸せは何よりも大切です。仕事が好きでも、周りが飛んでもない人たちであり得ないような嫌がらせを受けることもあるかもしれません。でもそこから逃げてもいいのではないでしょうか。子供の世界でもいじめを苦にして自殺する子がいますが、私はそいう子供たちに全力で逃げてと言いたいです。そういう状況になったとき、逃げるほうもものすごい労力がいるのです。すでに自殺に追い込まれている段階ですから、精神的にも弱っていますから、もう現状から逃げ出す気力もない状態から、安全なほうに逃げ切るのは大変なことだと理解してほしいです。
私は仕事から逃げました。そしてもっと楽しく生きられる職場を見つけたのです。大変なことでしたが、逃げ出してよかったと思います。逃げるときに「今逃げたらまた同じこと繰り返す」といった人がいましたが、その後死にたくなるような職場で働いたことはありませんので、私の決断はただしかったはずです。