相反する「恐怖」と「憧れ」の果てに 望ましい死とは

相反する「恐怖」と「憧れ」の果てに 望ましい死とは

死について考える場合、行きつくところは全く両極端な2つの感情です。それは、究極の「恐怖」と「憧れ」です。つまり、自分が残されることになる愛する者の死に対しては、この世の何よりも受け入れがたい辛い現象であり、心の底から恐れています。逆に自分が死ぬことは大歓迎です。いかに人に迷惑をかけずに生きるか、老いたのちの困難を考えるとむしろ生きていく不安の方が恐ろしいのです。
親族の死を何度も経験する年齢となりましたが、理屈抜きに愛してくれる血縁の人々が次々とこの世から去っていく悲しみと心細さときたら想像を絶していました。若い頃は死に直面しても、ただただ悲しかっただけまだましだったように思います。いつからか純粋に悲しむことができなくなり「ひとりになったら自分はどうなるのか」とチラリと考えずにいられません。そんな醜いエゴを自覚するなんてイヤでたまりませんが、どうしても頭をよぎってしまい、ごめんなさいと謝りながら手を合わせています。死を受け入れて感謝と共に立派に見送り、命を、家をつないでいく大人になりたい。それが逝く人のへの何よりのはなむけになるとわかっています。いくら年をとっても、そうなれない自分はみっともないほど子供であり、大嫌いです。大切な人を失う時は身代わりに死にたいといつも思います。こんなに真剣に祈り願うのになぜ死ねないのか、世間には悲しみのあまり食べられなくなり眠れなくなり死んでしまう人がたくさんいるというのに情けない。肉親の死は自分自身を責めさいなむ苦しみでしかありません。
それだけに、自分の死に対する憧れには相当強いものがあります。愛別離苦があまりに辛いので、生きていく気力が尽きてしまいました。死ぬのが惜しいと思えるほど、生きることが楽しければ何の問題もありませんが、生きることに喜びを感じなくなって久しいのです。宮沢賢治の童話に「土神と狐」という短編があります。その中の土神の言葉のひとつ「今虫が死ななければならないのなら、代わりに死んでもいいと思っている」というニュアンスのセリフがとても心に残っています。大いに共感しました。しがらみがあり、迷惑をかけることになる自殺はできません。でも、虫の代わりに死ねるなら今この瞬間にも死にたいという気持ちは常に心に存在しています。
憧れを持ちながら、死ぬときってどういう感じなのだろうかと考えることが多くなりました。最近読んだ夏目漱石の小説の、自らの臨死体験に触れた文章が印象的でした。大吐血して記憶が飛び、瞬間的に気がついたと思っていたのに、実は吐血後30分ほどの間生命機能が停止した状態だった、つまり死んでいたそうです。死と生の間には思っていたほどの差がなく、気抜けした…と、そんな内容でした。それが本当ならば眠るのと同じ感覚で彼岸を越えることも夢ではないのかもしれません。願わくは苦痛なく、眠るように死にたいものです。

明日が来るのは奇跡と思って生きています。

明日が来るのは奇跡と思って生きています。

30代に入るまでは、身近に「死」を感じたことがなかったと思います。いつかは来るんだろうけど、まだまだ先の事、遠い存在だと思っていました。身近で亡くなるのも祖父、祖母など年齢の方が多く、自分もその位の年齢まで生きて死ぬのだろうと漠然と思っていました。自分がこの世からいなくなる事を深く考えると怖くなってしまい、あまり考えないようにしていたのかもしれません。
しかし、ちょうど30歳になる年に、病気で友人を亡くし、交通事故で従妹をなくしました。友人は癌で、わかった時には末期、余命3か月でした。それまでは本当に普通の生活をしていて、何か月前から体調があまりよくないと言っていただけでした。彼女から連絡をもらいましたが、突然の事で呆然としてしまいました。いきなりの事だったにもかかわらず、彼女は「絶対治すから」と気丈にふるまっていました。本当は怖くて仕方なかったと思います。本当に、本当に強い人でした。私はすぐにでも会いに行きたかったのですが、当時海外に住んでいて仕事をしていたため、すぐには帰国できませんでした。日本に2日滞在するという強行スケジュールなら会いにいけたのですが、絶対治すからと言っているのに、余命を信じすぐに会いに行くという事ができませんでした。会いたい、でもわざわざ海外から帰国してまで会いに行く事が彼女の精神的負担にならないかと悩み行かない事に決めました。これは今でも会いに行っていればよかったのか答えがでません。
今でも彼女の事をよく考えます。ただ会って話がしたい。ふとした生活の中で彼女を連想する事もあります。最後に会った時にこれが最後だとは想像もしていませんでした。
その数か月後に、20歳の従妹を交通事故で亡くしました。飲酒運転の車に突っ込まれ、即死でした。夜中に起こった事故で、おばさんから朝方電話で従妹がなくなったと聞きました。聞いた時は理解できませんでした。彼は恋人と過ごし、自宅に帰る途中だったそうです。輝かしい未来が待っている、まさか自分が交通事故でなくなるなんて思ってもなかったと思います。家に帰って、寝て、起きて、朝ご飯を食べ、家族と話して、新しい一日が始まる。そんな当たり前の毎日が来ないこともあると痛感しました。
それからは「死」を遠い存在ではなく身近な存在だと思うようになりました。死は誰にでも来るもの、いつ来るかはわからない、なら明日が来ないと思って毎日後悔の無いように生きようと決めました。私は最後に目を閉じる時に「私は幸せだった」と思いたい、そう思うためにはどう生きたらいいのかと考えてます。どんな死に方をしたいか考えることで「幸せとは何か」についても考えるいい機会になりました。それまでは自分に無い物ばかりを悲観してもっと幸せになりたいなんて思うこともありましたが、今ここに存在しているだけで幸せなのだと。毎日起きて、ご飯が食べれて、子供を育てて、寝て、そんな当たり前の毎日に幸せを感じる事ができるようになりました。「死」についても今まではなんだか怖いものと思ってましたが、死んで友人やいとこと同じ世界に行けるのなら悪くはないなと思っています。

絶対に「生きることが大切で死にたいことが悪」なのか

絶対に「生きることが大切で死にたいことが悪」なのか

生きるということを美化した作品は多数あります。作品だけでなく人もそうで、なぜだか死にたいと思う人を責めたり、勘違いしてひどく同情し救いたがる人もいます。
なぜ生きることに執着するのだろうか、と考えることが多々あります。恐らく生物の本能的なものなのでしょうが、地球上で一番賢いと自称している人間も、やはり理性より本能が勝っているのだろうなと思うと、「人間は脳の3%しか使っていない」という話を思い出します。100%までいかなくても、例えば半分くらい使えたら、生きることが正義であろうという本能的で根拠のない理屈を激しく主張する人も減ってくるのではないか、とも思えます。
私は「死にたがっている人を助けたがる人」とやたら相性が悪いことが、最近分かってきました。そういう人は大抵長女気質で、救いたがりの聖人気取りなだけな人が多いのです。死にたいと思っている可愛そうな人を励まして慰めて助けてあげた私って偉い、凄い。そういう感覚が好きなんだろうなぁと思います。見返りを求めているパターンが非常に多く、例えば「いっぱいいっぱいで死にたいと感じている人に無遠慮に声をかけて励ますも、相手は人の話を聞いてやれる状態でなく、他人の理想論や美談はなおさら興味がないため全く精神的に回復しなかった」などという状況に遭遇するともうダメです。自分の言葉で励まされ、ありがとう貴方は素晴らしいと言われることが好きなので、基本的に自分の言葉を受け流されるのが嫌いらしいのです。そのため、さっきのような状況になると、さっきまで優しげに声をかけていたのに突然豹変し、途端にいっぱいいいっぱいの苦しんでいる人を批判しはじます。そういう場面にしょっちゅう出くわしてきました。
そういう人は、恐らく日常的に「死」というものを意識したことがないのだろうと思います。死にたいと考える人の気持ちがさっぱり分からないのです。そのこと自体は健康的ですが、分からないのに死にたがっている人の価値観に口を出し生きたがりに変えてやろうという思考は、ある意味病的です。
私はどちらかというとしょっちゅう死にたくなるほうなので、そういう人とはできるだけ関わりたくないなぁと思っています。
死にたくなるといっても、今すぐ死んでやる、というような、エネルギッシュである意味元気で前向きな、そんな衝動ではなくて、将来のこと、自分の不出来さ、家庭環境のこと、色々を冷静に考えている途中、不意に「これは手遅れだ」という結論に至ってしまうことが多いのです。そうなるともうどうしようもなく死にたいのですが、死ぬためにあれやそれを用意する元気もなく、頑張ることに疲れたという意識だけ残ります。そうして何もしてないのに、疲れたなぁと思いながら床につき、仕事の日には仕事に行きます。うまくいけば多少気が晴れて、読む気力すらなかったけれど好きだから買っては積んでいた漫画の週刊誌を古いものから読んだりもできますが、何かしらミスをするとまた「もうダメだ」で頭がいっぱいになって、運悪くスリップしたダンプが運良く自分に突っ込んでこないかな、と運転手にしてみれば迷惑なことを考えながら、無事帰宅してしまうのです。
また別の時には、ふいに思いつく場合もあります。特になにを考えたわけでもないけれど、まぁ死んでおこうというような気分になって、首を吊る用意をします。普段考えていることが考えていることなのだから、ふとそうなってもおかしくはないのかも知れません。とりあえず吊るかと思ったものの、思いつきでは案外うまくいかず、2度挑戦したけれど意識すら飛ばなかった日は、これは予行練習だったことにしておこうと開き直って後片付けをしました。
最近はよくアニメなどでキャラクターが死亡することが多く、そのたびネットでは「またこの脚本家は殺せばウケると思っているのか」といわれているのを目にします。生きるのが好きなはずが、フィクションでは殺した方が「ストーリーの意外性」として評価される傾向にあるらしいです。勿論それを何度も使えば、分かるひとには分かってしまうから、「またこいつが殺してるのか」「この脚本家ならこのアニメは見ない」という人だって出てきます。それは単純にストーリーのマンネリ化や、こうすれば売れると思っている姿勢が気に食わないからであって、安易にキャラクターを死亡させるなんて命を軽んじている!だから嫌いだ!というような意見を見かけたことはあまりないです。
結局人間は、死を面白おかしいもの、ある種のスパイスとして捉えているのか、それともやっぱり生きることの尊さを再認識したいのか、よく分からないなぁと思うことが多くなりました。別に、どちらが健康的で、どちらが異常だという話ではなくて、「どちらかが異常に決まっている」という思考を持つ人が少なくなっていることは、むしろ人類の進化ですらあるのではと思わされます。
生きたいので産んで下さいと頼んで産まれてくる人はいないし、死にたくないから生きさせて下さいと頼んで寿命を伸ばしている人もいない。生まれてきたものはしょうがないし、死ぬのもしょうがないのだから、せめて自分の意思で選べる「死に方」と「死に時」くらいは、好きにさせてくれと思います。