死ぬのは怖くないの?という質問に対して私なりの答え

死ぬのは怖くないの?という質問に対して私なりの答え

死ぬことは怖いか怖くないかといわれれば、もちろん誰でも最初は、怖い、死にたくないと答えると思います。私も子供のころは、死ぬのなんて嫌だ!!。一生若いまま生きていたいって真顔で言っていました(笑)。でも最近、長いこと生きてきて(といってもまだ、20代ですが)死についていろいろ考えた時、健康であろうが、病弱であろが、生き続けることのほうが、死ぬことよりも何倍も怖いのではないかと考えるようになりました。
子供の頃は、いつかは自分の命が土に代わって草木の養分になるって親から聞かされても、いまいち実感がわかず、すっごい先のことのように考えてしまっていたんですよね。なぜか自分は根拠無く、大きな怪我や病気もすることもなく、80ぐらいで安らかにいけると(たぶん、僕だけじゃなく、大多数の人にも経験あると思いますが)死ぬことに関して、まるで他人事のように感じてしまうんですよ、若いうちは。でも、当然社会とはそんなに甘いものではなく、体中ぴんぴんしてても、不幸な事故に巻き込まれて命を落とすこともあるだろし、運悪く通り魔や殺人鬼に遭遇し、ブスッと刺されて殺されるかもしれない、突然何の予兆もなく、ガンや難病にかかり、苦しみながら死ぬかもしれない・・。死ぬときって案外いきなり、何の余興もなく、突然来るものなのですよ。今生きている人は、自分には関係ない、自分はまきこまれないって根拠なく、豪語しますけど、そういうのって案外身近にあるもので、しかも襲われるときはほんの一瞬。目が覚めたら、空から自分の遺体を見下ろしてるかもしれない。治安がよく、医療制度も充実している我が日本国においても、何の問題もなく、天寿を全うする人って限りなく少ないんですよ。
でも、だからといって死にたくないから毎日びくびくしながら警戒心強くしながら、長生いしたいかと聞かれたらそれは疑問ですよね。当然、長くいきたいことに変わりはないけど、自分が死ぬ可能性がある選択を切り捨てて行くなんて不可能ですから、そうやって消去法であれもだめ、あそこもいかないってなると、何もできないし、そんな人生楽しくないと思うんですよね。最近の世情がそうで、子供が死んだり、事故を起こす可能性のある遊具や遊びは禁止にしようといって、あれも撤去、これも禁止、これでは子供がかわいそうです。娯楽って危険だから楽しいものだし、仮にそれで命を落としても、不謹慎ですが、楽しいことしながら、死ねるんだからよかったんじゃないの?と思うわけです。
自分、無宗教で、神様もあの世も信じてないんですが、たまにこういう話をすると、宗教を信仰してる人から「あなた、そんなんで、自分が70~80なった時どうするの?」って聞かれるんですよ。どうやら宗教信仰してる人っていうのは、死んだあとも意識があり、ずっと自我が保たれて、肉体のない世界にいけるとおもっているらしいんです。
ですが、これは宗教の死は救いという考え方に矛盾していることになるんですよ。というのも、多くの宗教では、死は救いなりを掲げて、自殺以外の多くの死を肯定しておりますよね。(イスラムの自爆テロよろしく)でも、死は救い=生からの救いと考えるなら、肉体が滅びるだけでなく、精神や自我もなくならないと救いにならないからです。だって体がなくなっても、精神や魂が残ってたら救いにならないじぁないですか。(意識がある限り苦しみがあるわけですから)だから、キリスト教やイスラムの信者で、生から解放されたいっていってる人がいても、あの世とか神の世界とか口にする人は、本当は死ぬのが怖い、まだ生きていたい人なんだなぁと思うようになった。
本当に死にたい人はあの世すら否定すると思いますよ。せっかく楽になれたのに、死んだ後も意識が残っているなんてそれこそ地獄だろうし。僕も自分がなくなる時は、パソコンの充電が切れて画面が真っ暗になるような、コンセントを抜かれて、電源を落とされて動かなくなる液晶テレビとか、そういう最後を迎えたいんですよ。死ぬのって本当の意味ではそういうことなんだと思う。だから僕が、「死ぬのが怖くないんですが?」と聞かれたら、「死んだ後とも意識が残ってる方が怖い。」と答えることにしました。

死をどのようにとらえるか、生をどのようにまっとうするか

死をどのようにとらえるか、生をどのようにまっとうするか

人はいつか必ず死にます。
死とはなんなのか、死のあとはには何が待っているのか。
これは古代から人間の永遠のテーマともいえるでしょう。
死を考えることにどんな意味があるのか、死とは、私たちに何を教えてくれるのでしょうか。
死の先を語れる人は、この世には誰もいません。
誰も知らないはずなのです、死の世界から戻ってくることはできないとされているからです。
果たして本当にそうであるのかは別として、死は誰にも語ることのできない世界の入り口であると言えます。
日本にも昔から、死後の世界を極楽浄土で過ごすための宗教が存在してきました。そしてそれは現代でも同じです。
人はそれほどに死を恐れている、ともいえます。しかし一方で、死後の世界に希望を見出しているともいえるのです。
現世はいつの時代も、生きにくい世の中。どこかに救いを求めている人は大勢います。
誰も知らない死後の世界は、救いを求めるのにはとてもいいのではないでしょうか。
そのために命を絶つ、ということではなく、現世でどのように過ごしたかによって死後の世界が決まるという考え方は
現世での生をまっとうするためにはとても有効な考え方であると言えると思います。
私自身は、死後の世界を信じてはいません。
人は生き物、物体であり、この命が尽きるときはこの体が動かなくなる時。
魂は脳に由来しているから、魂が生き残るということもないと思っています。
しかし、この私の考えは、人間が目に見えるものしか信じないという浅はかな考えで成り立っているものです。
魂という存在が見えないから、脳という見えるものに帰着している。
幽霊が誰にでもみえるものではないから、ないものであると考える。
しかし、人間に見えている光は、ごくわずかです。
人間の目には映らない世界が、同じこの世界の中に広がっていると考えるのは必然です。
それを否定していてはいけないとも思っています。
死を考えることは、生きている私たちに多くのことを与えてくれます。
当たり前に来る明日が来ない。明日が当たり前だからこそ、私たちは退屈に毎日を過ごし、後悔を先延ばしにし、
ため息をつきながら今日という日を過ごしている。
しかしそんな生活は、誰もしろとは言っていない。
人間が勝手に、退屈に毎日を過ごしているだけだ。そんな退屈で意味のない毎日を彩るために、死の存在は不可欠だ。
余命を宣告された人が、いろいろなことをやってのけていくというストーリーもあるが、
そういったことなのだと思う。
我々の命は限られている。しかし、そこに気づかずに過ごしていってしまうのがふつうである。
たまには死を意識して、自分の生のあり方について問いただしてみるのも、人生を豊かにしていくためには必要なことであろうと思う。

死ぬことを理解することは生きることに繋がる

死ぬことを理解することは生きることに繋がる

物心がついてから、私は母方の祖父が大好きでした。そのことに気づいたのは、祖父が亡くなってからのことでした。
祖父はとてもユーモアに溢れていて、祖父宅に遊びに行くと今日はどんなおやつを買ったか、どこかに隠したが見つけられるか、と、いつでも楽しませてくれました。
そんな祖父が倒れたのは私が小学生の頃でした。脳梗塞とのことで、それからは入退院を繰り返し、そして、ついに祖父は左半身が麻痺してしまい、施設に入所しました。それから数年後、祖父は亡くなってしまいました。私はこの時、初めて、「死」というものに直面しました。
母方の祖父が亡くなり、母の実家では私が知らないうちに何もかもが整理されました。死というものは、こんなに呆気ないものなのか、と思ったほどです。母方の祖父は、それまで左半身が麻痺し、うまく話すことができず、とても苦しくて悔しかったのだろうと思います。亡くなってから思うことは、そのような苦しみから解放されたのだろうなということです。自由に動けない体で、さぞ悔しかっただろう、辛かっただろうと思います。それらのことから解放された今、きっと、祖父は自由な体を手に入れて、好きだったことが自由にできているのだろうと思います。
また、「死」というものは残された者にとっては新しく生まれた悲しさだと思います。祖父を亡くしてから、祖母は誰の目にも明らかに憔悴してしまいました。現在では多少のことは笑って過ごせるようになっていますが、当時の祖母の絶望に似た悲しみや孤独感は孫の私の目にも痛々しく映っていました。時が経つにつれ、祖母の悲しみも癒されてきているようですし、祖母は祖母なりに毎日を過ごしているようで安心しています。私にはまだ連れ添う相手はいませんが、もしも、私が祖母の立場に立った時、どのような気持ちになるのか、少し考えただけでもゾッとしてしまいました。長年、連れ添った相手が突然、この世からいなくなってしまうことなど、今の私には考えられませんし、その時、どのようなことになるのか全く分かりません。しかし、それを自分の「死」ということに置き換えてみると、残された家族はとても大変なのだろうと思います。そのことを踏まえて、今の自分に何ができるかといことも考えていかなければならないと思っています。
そして、時々、ふと、自分の「死」について考えることがあります。痛みが続く中で迎える「死」よりも、何が起こったのか全く分からないまま迎える「死」の方が良いのだろうかと思うことがあるのです。できることなら痛みを伴わない「死」を私は望みたいと思っています。
何か物事の絶頂にある時、「もう死んでもいい」と思うことがありますが、それは本当に思うことではなく、比喩表現に他なりません。ですが、苦しさの中にありながら迎える「死」よりもその方が良いのだろうと思います。
死んでしまっては何もできない、という考えが私の中にはあります。健康でいられるからこそ、考えられることだと気づいてからは、「死」というものが何なのか、よく分からなくなりました。生きているからこそ考えられる、「死」について、もっと真正面から考えられたらと思います。

死について(死生観、死を考える時)考えた経験

死について(死生観、死を考える時)考えた経験

死について考えることは、それぞれの場面においてよく見られることですが死ぬことは、誰にでもある生活の場面での現実だとおもいます。現実的に死を迎えることによってどのようなことがおきるか考えることができるとおもいますが、自分がおちいって仕舞ったことによっておきた死についての現実、死を迎えることによって考えられることは、死生観などによって代表される死にかたや、死についての考え方だとおもいます。死を迎えることは誰にでもありますが、それぞれ自分が考えることができる死に方としてそれぞれの方法があるとおもいますが、自分が死ぬこととは、生前にある生の方法そのものでどのような場面、どのようなときに死ぬかを考えることによって生き方全体を考えることだとおもいます。死に方をおもうことによって自分がどんな風にして生活してみたいかということがありますが、生き方は現実の社会において生活の手段として、それぞれ社会の場面でどんな風にして生活の方法をとるかということだとおもいます。それぞれの手段によって生きる方法を考えることができますが、生き方としての社会的な行為や、判断の方法は、それぞれ生きるということを考えることによってどんな風にして生の仕方を考えるか、社会のそれぞれの場面で生きる方法を考えることができるとおもいます。生き方を社会においてすることは、それぞれ社会的に決められた手段によってそれぞれの方法によってすることができる生活の手段として考えることですが、自分がしてみたいとおもう方法での生き方をしてみたいとおもいました。生きるということは、それぞれの手段としてあるとおもいましたが、それぞれどんな風にしていきてみたいかということを、それぞれの社会にある方法で決めて、社会がどんな風にして運営されて、その成員として生活することができるかを考えることができるとおもいました。それぞれ社会の成員として、そのなかでの生き方を考えることによって生を考え、死に方を考える。死に方をどんな風にして考えるかによって死生観として、死について考え、社会にいる人としての生きかたとして、それぞれの手段によってどんな風にして生きたらいいか、そうしたその後死を迎えるかを考えることができるとおもいます。死について考えることは、社会において生きることを意味しますが、社会生活や、社会の組織の一員として生きることによって、その中で死を考える。それぞれ死を現代の生活の中で方法として考えて、自分がどんな風にしてその生活の中で死がどんな風にしてきまっているのかを、おもい、自分の死について考えてみたいとおもいました。死を、現代的意味として、社会的なもののなかで捉えてみたいとおもいました。

1年前から寝ようとすると定期的に死について考えてしまう私の話

1年前から寝ようとすると定期的に死について考えてしまう私の話

私は比較的早くに身近に死を体験しました。
2歳と言えば今でも記憶が残っているくらいの時期ですし、ある程度自分で何かを考えたりし始めると思います。
そんな時期に妹を亡くしました。正直その時は死というものがわかっていませんでしたが離れ離れになるということは理解できました。
そして、小学校のころ大好きな家族を2人なくしました。
それからしばらく頻繁に死について考えるようになりました。その時に考えていたのは死ぬのが怖いということと、死んだらどうなるかということでした。
考えただけで怖くなって体調を崩し早退することが多くなりました。
中学校に入ってからは、死にたいと思うようなことが多くなりました。実際未遂もありましたが健康なまま高校に進学しました。
高校に入ってからは死にたいとも思わなくなり、次に考えるようになったのは
母や身近な人が亡くなった時のことについてです。
2歳から頭の中身は成長しましたが死とはどういうことか、そこまで理解はしていませんでした。
別れという認識ではいますがそれがどうといったことがよく分かりません。
高校を中退し、旦那と住んでいますが離れてからは特にひどくなりました。
今までなら、考えて眠れないことや何も手につかないということはありませんでしたが、1年前からひどいことが続いていました。
主に母が死んでしまったらどうしようと思います。もう二度と会えないと思うと訳のわからない感情になります。
母がなくなったら代わりはなんだとか、私もいつか死ぬが死後会うことが出来るのかと悩んだりします。
そうなると輪廻についても考え始めます。信じてはいるのですが確信はないのでそのことについての恐怖がすごいです。
結局考えすぎて母が死んで二度と会えないという本題に戻ります。
そんなことが昨日も起こりました。
最近まで一緒に住んでいた祖母があまり体調がよろしくなく、薬を1日に10錠飲んでいる話を聞かされました。
それを聞いてから、日中も死について考えるようになりました。あまり長くはないこの先の人生を毎日どんな気分でで過ごしているのかを想像するだけで死が怖くて怖くて仕方がなくなります。
旦那に対しても、年間の事故の死亡人数についての記事を読んでからバイクに乗らないでほしいとか一緒に歩くときに歩道側を歩いてほしいと思います。
ここまでの内容を読み返してみたら自分より人の命のことばかり考えているような内容になっていると思いましたが、ここまで死について神経質になってしまっているので今いる身近な人の誰よりも先に死んでしまわないと気がおかしくなるのではないかと思います。
それでも最後まで自分の命と人の命どっちもと向き合いたいと思いました。以上です。

自殺をすれば迷惑が掛かるから絶対にしてはいけない

自殺をすれば迷惑が掛かるから絶対にしてはいけない

自殺をする人が年々増えておりますし、自殺者の若年化もされているような気がします。
今は小学生でも自殺してしまう子がいるくらい社会が病んでいます。
人間はいずれ寿命が来て死ぬものなので、自ら命を絶つということは絶対にしないで欲しいですね。
私も自殺をしたいと思ったことは何度もありますし、つい先日も死のうと思いました。
二階から飛び降りてしまおうかとも思いましたし、そこに置いてあるタオルで首を絞めて死のうかとも思いました。
そこまで追い込まれている状態でした。
自殺相談ダイヤルみたいなものもありますが、以前ああいう所に助けを求めたこともありましたが結局何も変わりませんでした。
本当に病んでいる人は誰がどんな言葉を掛けてあげても死にたいという気持ちは変わらないのです。
ですが死にたいという気持ちは時間が解決してくれることが多いです。
だから私は今こうやって元気に生きています。
死にたいと思って本気で自殺を考えている人は今も沢山いると思いますが、絶対に死ぬなんてことを考えないで欲しいです。
皆に迷惑を掛けたくないと遺書を残して死ぬ人もいますが、迷惑を掛けないならば生きて下さい。
最近自殺が遭った家を表す事故物件が何かと話題になったりしていましたが、もし自宅で自殺を図った場合は事故物件になってしまいます。
もしそこが賃貸ならばどうなるかと言うと大家さんに迷惑が掛かります。
発見が遅れたり自殺による汚れが付いたりした場合はリフォーム代が掛かります。
そのリフォーム代はどうなるのかと言うと、残された遺族に賠償請求が行ったりすることがあるのです。
また、事故物件の場合は家賃も下げなくてはならないので、下げた分の家賃も遺族に請求が行くと言います。
なので死んだら迷惑をかぶるのは家族になるということです。
もし賃貸ではなく持ち家で自殺をしたとしても、近所の人は気味悪がることは間違いないでしょう。
ならば室内以外で自殺をすればいいのかと言うとそれも良くないことです。
誰かしらは遺体の処理をしなければならないわけですし、死んだら誰かに迷惑を掛けることは確かです。
私が自殺を思い立った理由の一つに死んで迷惑は掛けられないと思ったからです。
もし私が遺族の立場だったら迷惑を掛けられたくはありません。
生きていると辛いことは沢山ありますが、楽しいことも沢山あるはずです。
テレビを見ていると、若い頃はずっと波乱万丈な人生を歩んで来たけど晩年は幸せな人生を送っている人が沢山いることも分かります。
今すぐに幸せになれるかどうかは分かりませんが、生きていて嫌なことがずっと続くことはありません。
生きたくても生きられない人も沢山いるのですから与えられた命を無駄にしたくはないですね。

50を過ぎるとどう死ぬかを考えて生きている

50を過ぎるとどう死ぬかを考えて生きている

小説家の池波正太郎さんが人間は生まれた時から死に向かっていると書いています。
まさにその通りなのですが、その言葉が心に響くようになったのは50歳を過ぎてからです。
人間の死あを意識するようになったのは、25歳の時に母親が他界した時です。
身内が亡くなって死が身近にあることを痛感しました。
人は死ぬことは分かっていても今までは実感がなかったのです。
それが、母親の死によって実感せざるを得なくなったのです。
その5年後に父が亡くなりました。
父は家庭的ではありませんでしたが、友人が多い人だったので多くの人に見送られて逝きました。
闘病生活もあり、最後は苦しんで亡くなりました。
母親も病気で苦しんでなくなりました。
両親とも病気で苦しんで死んだため、病気で苦しんで死ぬのは嫌だなと思っています。
ただ、事故で死ぬのも嫌です。
現在、自分は独身で姉妹と一緒に住んでいます。
両親が亡くなって身内は姉妹だけです。
今後どちらも結婚する予定もありませんので死ぬまで一緒にいると思います。
そうなると、自分が先に死ぬのも嫌だし、残るも嫌!一緒に死ねたらいいななんて話しています。
こんな不謹慎なことを言うのはどうかとも思うのですが、災害で寝ている間に死んでしまうとか、某国がミサイルを日本に撃ってきてひと思いに死ねないものかなんて考えてしまいます。
また、母親が亡くなった歳に自分が達した時も、自分は母より長く生きられるのかと考えました。
超えた時には自分は母親より年上なんだと何だか不思議な気持ちになりました。
最近、死について再度より考えることがありました。
いつまでも若いつもりでいましたが、同世代の知り合いが亡くなったのです。
自分が普通に死ぬ年齢になったのだということを改めて考えさせられました。
いつ死ぬかは分かりません。死ぬ時に悔いがないようにとは考えます。
今更、大きな夢などありません。
ひとつだけ希望を言えば、死ぬまで美味しく食べていたいということです。
「いつ死ぬか分からないのだから、好きなものを食べよう」と日々家族と話しています。
もちろん、健康に留意はしてはいます。
ただ、たまには不健康だなあって思うようなものとか、ジャンクなお菓子などもご日々の生活のご褒美として食べるのも必要だと思います。
美味しいものを食べることってモチベーションも上がるし、幸せを感じることができます。
健康で事故なく一日一日を暮らすことができて、美味しく食べる事ができるのが一番の幸せではないかと思っています。
病気になれば、食べる事ができなくなります。
父も母も最後は食べる事ができなくなりました。
自分は死ぬ間際まで好きなものを食べる事ができればいいなあと思っています。

死を考える瞬間、死に対する恐怖、生きてる実感。

死を考える瞬間、死に対する恐怖、生きてる実感。

皆さん一度は死について考えたことがあるのではないでしょうか?私はまだ20代ですがよく死について考えることがあります。小学生高学年くらいの時に死というもの理解してから、最初は非常に恐怖を感じました。今目で回りを見て、耳で音を聞き肌で感じている。その感覚、意識すら何もかも無になる。そう考えると本当に恐怖を感じて夜眠れなくなったのを今でも覚えています。自分はまだ子供だけどいつか死ぬときが必ずくる。今いる友達、周りの人たちも必ずいつか死ぬ。そう考えると本当に恐怖を感じました。ですが、今はあまり感じません。確かに余命1年もないと急に宣告されたとしたら、戸惑うと思います。ですが、死があり終わりがあるからこそ今を生きようと思うのではないかと考えるようになりました。もし本当に死ぬことがなかったら終わりなく永遠生き続ける、それも非常につらいものだろうなと思います。いつか終わりがある、人生は一度きり、と思うからこそできる事もあるんじゃないかと思います。もちろん、長生きできたらそれはいいことだと思います。でも、いつか来る終わりの時までこの人生を楽しもうと考えるからこそ人生は輝くのではないかと思います。仕事がうまくいかなかったり、なにかつらいことがあると死んだほうが楽なんじゃないかと考えることもよくあります。ですが生きてたらつらいことはたくさんあります。それも含めて「生きている」ということだと思います。人生の中で本当に取り返しのつかない事というのは案外少ないものです。ですが、死に関しては本当に取り返しがつかないことだと思います。死んでしまったらもう戻ることはできません。死んだ人がよみがえることはありません。それはおそらくこの先の未来、何十年何百年経ってもかわらない普遍の原理だと思います。だからこそ死ぬ前にできるだけやりたいこと、やれることはやっておきたいですね。自殺者は毎年何万人と出ています。20代の死因の半数は自殺だと言われています。確かに死にたくなるほどつらいことがあったり、そうするしかない状況に追い込まれてしまった人もいると思います。そういう人たちに対して、安易に生きていればいいことがあるよというのは無責任なアドバイスと見られることもあると思います。ですが人間どうせいつかは必ず死にます。違いは早いか遅いか。たったそれだけです。10年、20年経過しても全く変わらない状況というのはそうそうないと思います。悩みだって案外気づいたら忘れてたり、解決してることも少なくありません。皆さん1年前の悩みは?と聞かれて、すぐに出てくる人は少ないのではないでしょうか?悩みなどの多くは時間が経てばどうでもよくなっていたり、状況が変わっていることもあります。どうせ死ぬ運命なら生きている間は足掻いていたいと私は思います