死ぬとは、宇宙のエネルギーにかえること。

死ぬとは、宇宙のエネルギーにかえること。

私は子どもの頃からよく寝る前などに、ベッドの中で「死ぬ」ということについて考えていました。
死んだらこの意識はどうなるのか、そもそも生まれてくる前、自分はどこにいたのか。そして、どこからどうやって生まれてきたのか。
考えれば考えるほど怖い気持ちになって、こんなことならいっそ最初から生まれてこなければこんな恐ろしい思いをせずにすんだのに・・と思ったりしていました。
また当時は、親の影響で手塚治虫さんの『火の鳥』を読んでいたせいか、輪廻もなんとなくあると思っており、
永遠に生まれかわるなんてそれこそ何度もつらい経験をしなければいけないので、なんて恐ろしいことだと思っていました。
今はそのころの死生観とは少し違って、死ぬというのは、宇宙にエネルギーとなってかえっていくことなのではないかと考えるようになりました。
そもそも産まれる前のずっとずっと長い間、個人が何かに生まれ変わり続けていたとは私はとても考えられないので、
人は死んだら自分と似た波動やエネルギーを持つ魂と混ざり合い、またらせんのようなものを描きながら宇宙というエネルギー全体を
形作る宇宙の一部になるのではないのかな、と今は思っています。
具体的には、誰かの臨死体験が記憶に残っているのかもしれませんが、死の瞬間が訪れたらまず、最初は目の前がまっくらになると思います。
それからだんだんと光のようなものが見え始め、その光の方へと人は導かれ(ここの光とは朝日のようなイメージです)、
光にあたると同時に、その光の中にその人自身が取り込まれ、溶けていく気がします。
この光に溶けていく、光にかえっていく瞬間は、なんの恐れも痛みもない、至福の瞬間であってほしいと思います。
死んだら自分というものはなくなり、今愛している人達とも逢えなくなると思うとどうしようもなく悲しいですが、
もともとみんな宇宙のエネルギーの一部だとしたら、死んで似た魂の人とは混ざり合うのですからきっと寂しくないはず。
そして、近い魂だからこそ友人や家族としてこの世で会うことができたのではないでしょうか。
マンガ『火の鳥』にもありましたが、永遠に生き続けるなんてそれこそ苦しく孤独なことだと思います。
人よりも早く死ななければならないとしたら、「死」を受け入れるのはとても難しいと思いますが、
老人と言われる年齢まで生きて、子供たちが独立し、愛する人や友人も死んでいく中で迎える「死」だとしたら、
少しは穏やかな気持ちで受け入れられるのではないかと思います。
人間を含め動物には、生きたいという本能的な欲求があると思うので、「死」への恐怖は一生消えないかもしれませんが、
理性の部分では、「死」を受け入れられる、受け入れたいと今の自分は考えています。

生死観ってすごく難しいことの様だけど、実は簡単な事。

生死観ってすごく難しいことの様だけど、実は簡単な事。

生死観って事には子供のころから興味が尽きなくて、ずっと考えていたことだったと思います。小学校5,6年の時なんかは、良く犬の散歩をしながらも自分が死んだら全てが無くなって、じぶんの存在が消滅して、今の意識も無くなるのではないか?そうなったら一体どうなるんだろう?自分は、自分という者でなくなったら一体何になるのだろう?あるいは自分がもしそのまま意識を保って生き続けたとしても、宇宙がその寿命を終わらせようとするとき、一体どうなってしまうのだろう?終わったら、どうなるのだろう?などと、ひとしきり考えては恐れおののいていました。
 今の自分はそれに明確な答えがあるわけではありませんし、もしかしたら自分という者がこの一生のみを生きる存在なのかも解りませんが、少なくとも僕は自分の魂ってものが連綿と続く者の中に織り込まれていて、輪廻をとおして少しずつ良くなっていく存在なのだと考えています。そして、その魂にデザインされた出来事がこの世の中で僕らの身の回りに巻き起こりながら、オリジナルの人生を一つまた一つと作り上げてるんじゃないかと思うんです。
 そう言う意味では、僕、という個人の意識というのは次の人生では消えてしまうような存在なのかもしれませんが、それとは別に僕の中心に流れる魂、と呼ばれるようなものは死を経験しながら存在し続け、その次の生でまた別の経験を生きながら、少しづつ拡大していくものなんじゃないかと考えるわけです。
 僕はこの考えを色々な書籍を通して読んできた知識の中から組み合わせて編み上げたわけですけれど、だからと言って死ぬことが怖くない訳じゃありません。自分、というアイデンティティが消失することは、もしもこの仮説が合っていて、魂は失われなかったとしても、やっぱり恐ろしいことだと思ってしまう訳です。ただ、何となくですが、この人生が終わった後に、自分が何であったのか、思い出す時間の様なものがあるかも知れない、とは思っています。自分というのがこの人生を生きてきた個人の事ではなく、ずっと連綿と生きてきた魂の事を指すという事、そして、その自分が存在するのであれば、個人としての自分は消えてしまって大丈夫だと実感できるような瞬間、そういうものが用意されてるんじゃないかと。
 まあ、希望的楽観に過ぎないと言われればそれまでなんですが、それでも死が終わりでは無い、という事については、何となくですが、僕は楽観的でもしかすると死ぬこと自体はすごく素晴らしい経験をもたらすのかもしれないとさえ考えています。
 だからと言って積極的に死にます、とは全然思いませんが。多分、この人生を生き切ってこそ、その死ぬ瞬間の「全部わかった!」的な気持ちよさが生まれてくるんじゃないかなあ、なんて思います。

産まれてきて生きるということは歴史をつないでいくということ

産まれてきて生きるということは歴史をつないでいくということ

死生観というのは宗教や国、その人により考え方がとても違うものだなと思います。私が初めて血縁関係者の中に死を経験したのは小学生の頃でした。お通夜とお葬式を通して、火葬場へ行き、火葬場から骨が出てきたときにはとても怖くてその骨を拾えなかった記憶があります。大人の人たちはみんな長いお箸でお骨を拾っていて、私は遠くからそれを見ながら悲しみと恐怖の混ざった思いでその光景を見ていたのです。火葬場の煙突から立ち上がる煙を見ながら、私は亡くなった人はこうして空へ上っていくのかなと考えていました。人一人が一生でできることは本当にたくさんあります。そのあとに死んでからどうなるとか生まれる前の前世があるとかはわかりませんが、現在の科学でも遺伝子レベルで感情も遺伝することがわかっています。ということは、自分のこの人生の中で感じた感情も次の世代へと引き継がれていくということなのです。だから、自分が子供を産み始めるまでの間になるべく楽しいうれしい優しいなどの経験を沢山しておくとよいのではないかと思います。生きているときの時間はいろいろな経験をしながら、魂のステップアップをはかる時間だと言っている人がいますが私も同感です。何かのつまづきを乗り越えたときに魂が磨かれて、死を迎えたときに次に生まれてくるレイヤーに入るのかもしれないと漠然と考えることがあります。それでも人間には抑えられない煩悩や乗り越えられない壁や気持ちなどが沸き起こり、様々な形で次の生を受けるときのために精進しなければならないことがきっと沢山あると思うのです。早く亡くなってしまう魂もありますが、そういう人は、早く亡くなることで周囲に学びを与えてくれていると考えることがあります。私は基本的に死はすべての終わりではないと思っているのです。では死んだあとはどうなるのだと思うことがあり、それははっきりとはわかりませんが、もしかすると今の状態とあまり変わらないのかもしれないとも思います。丁度中学生くらいの頃は、一番生まれてきた理由について真剣に考えたものでした。何故生まれてきたのか、何故死んでいくのか、どのくらい生きるのか、いつどこで死ぬのか、あれこれ心配になって考えたものです。しかし生と死は人とのご縁であり、そして歴史をつなげていくものなのでしょう。ですから、人とのご縁や生死にかかわるご縁というものはとても大切にしていくべきことなのかもしれません。私の基本的死生観は仏教の輪廻に基づいていますが、どんな死生観でも、生と死を大切に思えばそれで充分なのだと思います。今家族となった人たちや関わりあっている人達そのご縁をとても大切にしていきたいです。

死後の世界はあるのか無いのか昔から考えてきましたが

死後の世界はあるのか無いのか昔から考えてきましたが

死んだらどうなるのか、考えると怖くて仕方がありませんでした。夜寝ようとして横になっても、天井の模様を眺めているうちに、すぐ死後の世界とはどんなとこなのか…気になって眠れないこともありました。死後の世界に関する漫画も読んだのですが、死んだらその人にふさわしい場所に振り分けられ、悪いことをした人は地獄のようなところに行き、善良な人はご先祖様がお迎えにくるお話でした。
その後、祖母が亡くなり、実際に初めて身近な人の死を体験します。しかし、その時に母から言われたのが「人は死んだら土に返って終わりよ」ということでした。なんだか、この考え方は子供の私にはかなりガッカリでした。今まで祖母と過ごした楽しい時間を考えると、亡くなったら全部消えてゼロになるのは、悲しすぎると思いました。
その頃から、死後の世界については、漠然と怖がるのではなく、みんなどうしているだろうか…という思いを馳せる場所に変わっていきました。確かに、祖母はもういなくて何もしてくれませんが、それが終わりであるとはどうしても思えませんでした。母は、あまりにも悲しみが深過ぎて祖母のことに触れたくないのかもしれないと思ったので、祖母の話はあまりしないようにしていました。
そして、数年前に今度は私の父が亡くなりました。親が亡くなると、死の世界に近づく…というようなことを聞いたことがありましたが、本当にその通りでした。自分もあとどれだけ生きているか分からないし…と、人には言わないものの、よく考えるようになりました。消えていなくなってしまったと思いそうな時には、父があの世で新人さんとしてトレーニング中の姿を想像したりもしました。後から来た方達に、座布団をお出ししてお茶を入れて…と、かなり具体的に。
また、この後で東日本大震災も起きました。大きな揺れを経験するのははじめてでしたし、地震や津波でたくさんの方が犠牲になりました。こんなに多くの人があっという間に亡くなってしまって、これで終わりではおかしい…と、改めてまた死後の世界の存在があるはずだと思うようになりました。それに、世界に目を広げても、あちこちで戦争の犠牲が報じられます。楽しいこともあるけれど、大変なことが地球では多過ぎるように思います。何かのための試練だとしても、もう生きていく気力もない状態の人がたくさんたくさん出ています。
今までの私の人生と世界の状況から考えると、やはり生きている時よりももっと穏やかな死後の世界があるのではないかと思わざるを得ないのです。大変な思いをしながらも頑張って生きた人に、「こんなところがあったんだね」と笑顔になれるような死後の世界があると、私は信じたいです。

人間の寿命と最後の時を恐怖で迎えないために出来る事

人間の寿命と最後の時を恐怖で迎えないために出来る事

20代前半の頃、両親ともにガンで亡くしました。
そのせいか、同世代の友人達に比べると、死について考え始めたのも少し早かったような気がします。
友人達よりほんの少しだけ、死を身近に感じていたのかもしれません。
身近と言っても決して親しみがある意味ではなく、それはやはり恐怖心です。
死そのものよりは、死に至るまでの過程みたいなものに対する恐怖です。
それはやはり、両親が病気で苦しむ姿を見てきた事が大きな要因だと思います。
不思議な事に父も母もお互いの親戚に、ガンで亡くなった人はいません。
だからガン家系というわけではないのかもしれませんが、両親ともにガンであればその遺伝子を継ぐ子供である自分もガンになる可能性は高いはずです。
いつか自分もガンになるのではないか、という思いは常にあります。
両親ともに病魔を克服できずに亡くなっているので、もしも自分がガンになった時に、一体どんな思いになるのか、想像できませんし想像したくもないのが正直な気持ちです。
そうなった場合、前向きに考えるのは難しそうではありますが、とうとう来たか、という諦めに近い開き直りの気持ちになるかもしれません。
覚悟はしていたけど、やっぱり嫌だな、みたいなそんな感じでしょうか。
20歳の時に亡くなった母は、とても働き者で丈夫な人でしたが、父の放蕩癖などもあり苦労が耐えなかったせいか、子供の頃からなぜかいつも、お母さん早く死んじゃうんじゃないかな、という不安がありました。
発症から手術、その後は入退院を繰り返し、約2年の闘病生活の末亡くなりました。
母の七回忌にあたる年に父も病に倒れ、7ヶ月の入院生活でこの世を去りました。
2人の入院生活中に、人間の寿命についてよく考えました。
同じ病室に入院していた30代の男性は、退院を1週間後に控えていたにもかかわらず、ある朝、突然の心臓発作で亡くなっていました。
起床時刻になっても起きてこないため声を掛けると、すでにベッドの中で冷たくなっていたのです。
男性に心臓の疾患はありませんでした。
父が入院してすぐに個室に移された年配の男性は、何度か危篤状態に陥り親戚が駆けつける事数回、それでも父の方が先に亡くなりました。
変な言い方ですが、先に亡くなると思われていた老人が生きながらえ、これからまだ生の時間が長いと思われた人が思いもよらずに死を迎える姿を目の当たりにして、人間というものにはそれぞれに決まった寿命があるものだとつくづく感じました。
蝋燭の炎を命に例えた映像がよくありますが、本当にそんなものがあってその炎が消えない限りは命が尽きることは無い、そんな気がしたのです。
もしも命の長さが、生まれた時から決まっているのだとしたら、生まれた瞬間から死に向かって生きている、という事になるのでしょうか。
そう考えるとなんだかとても不思議です。
せっかく生まれたのに、ゴールは死なのですから、死ぬために生まれるようなものです。
生死が表裏一体とはよく言いますが、まさにその通りです。
自分は今まで何かの宗教について、ちゃんと学んだ事はありませんが、そんな答えの無い生死について、何かを導いてくれるのが宗教なのだとしたら、学んでみるのも良いかもしれません。
両親は死の間際まで病魔によって苦しみました。
やがて臨終を迎えた後の2人の安らかで穏やかな死顔は、その苦しみを超えなければ与えられないものだったのかと考える事もありました。
だとしたら随分と大変な修行が最後に待っているものだと、今から考えるだけでも嫌になってきます。
しかし、苦しみながらも恐怖で死を迎えるのと、そうでないのとでは終わり方は全く違ってくると思います。
自分に残された時間があとどのからいなのかは分かりませんが、それまでに恐怖だらけで終わりを迎えないですむように、なにか少しでも答えが見つかるといいなと思います。

死は死んだ本人よりも後に残された人に悲しさを残し考えさせるもの

死は死んだ本人よりも後に残された人に悲しさを残し考えさせるもの

父ががんになり死について考えるようになりました。人が死ぬことは誰かに考えてもらうために起こる事で、死にはとても重要な意味があるのではないかと考えています。例えば誰かが自殺したとします。本当に自分が嫌で生きていくのが嫌になって死ぬ人はほとんどいないような気がしています。自殺する原因はイジメだったり借金だったり様々な理由があると思います。イジメで自殺する人はイジメから抜け出したい気持ちもあるとは思いますが、それよりも自殺する事でいじめていた相手に自分が自殺するほど苦しかった事、悪いことをしているんだと相手に訴えたい気持ちが強いから自殺するのではないかと考えています。私自身も父ががんを宣告されて死が頭をよぎった時、今まで思いもしなかったことを思うようになりました。今までは一人立ちしていながらも金銭的に父を頼ったり親孝行的な事をした事がありませんでした。でも父といられる時間が短いと思った時、父の為に何かできる事はないか、生きているうちにできる事はすべてしたいと思いました。あまり話した事がない父でしたが、入院中は毎日病院に行き、産まれて40年間の中で一番父と話し一番一緒に過ごしました。マッサージをしたり自分ができる事はすべてしました。退院後もできるサポートはしたつもりです。幸い父はがんが完治した状態で今は転移も見られず元気に過ごしています。自分自身の死についても考えるようになりました。私自身は死ぬことについて怖いと感じる事はありません。天国とか地獄とか言いますが、実際はそんなものは存在せず、死ぬと今の生活の事はすべて忘れてしまって無の世界で穏やかな生活が待っているのではないかと考えています。死んだあとに待っているのはきっと天国だけです。どれだけ良い事をした人でも悪い事をした人でも死んだあとは皆天国。悪いことをした人は生まれ変わった時に悪い事が自分に返ってくるだけで、良い事をした人は生まれ変わった時に良い事が待っている、それだけの事です。死んだあとの世界は今生きている世界よりもきっと穏やかで住みやすい世界です。死を許された人しか行く事ができないとても穏やかで特別な世界なはずです。だからそう簡単にその世界に行く事はできない。この世で与えられた様々な困難を乗り越えた人のみに与えられた幸せな場所ではないでしょうか。死ぬ事で苦しむのは死んだ本人ではなく後に残された人で、死んだ本人には何のことでもないでしょう。だから自分が死ぬことは怖いことではないですが、自分以外の誰かが死んだときの苦しみの方がよっぽど怖いです。悲しいです。その悲しみと苦しさを乗り越えて生きている人間は強く生きていかなければならないと思っています。

自然な「死」をむかえる。それは目一杯生きること。

自然な「死」をむかえる。それは目一杯生きること。

若い頃の私にとって「死」というものは只々恐ろしいものであり、どんな事をしても回避しなければならない、最悪の結末でありました。
もちろん「死」に対する恐怖心は今でも変わらずに持っていますし、私以外の多くの人々もそうであるに違いありません。
これは動物としての本能でもあるでしょうし、又、子供の頃に親や学校の先生にそんな風に教えられて育っていることが要因であるともいえます。
これは当然の事でしょうし、又、そう有るべきだと思います。
ただ一つ、私個人の話をすると、若い頃は、こういった教えの影響をあまりにも大きく受け過ぎたせいか、自らの命を絶つ行為、「自殺」を卑怯者がとる逃げの手段だと思っていました。
ですが、今こうして年齢を重ねて、自分自身にも苦しくて悲しい経験が積み重なっていく中、時として、「死んだら楽になるのかな。」と考えることがあります。
そして若くして自ら死を選んでしまう人々には、私が50歳の手前で感じ始めているこの感覚が、ものすごく早く来てしまったのだな、と、思うようにもなりました。
勿論、私はここで自殺する事を積極的に肯定するつもりはありませんし、私自身も自然にその時が訪れるまで、現世での命を全うするつもりでおります。
でも今は、自殺する事を選んだ人々に対して、「後に残されたものの苦しみや悲しみを考えろ!」とは思いません。
きっと、「周りの人を苦しめちゃいけない、悲しませちゃいけない。」と思いながら、その人自身が一番苦しんで苦しみ抜いて、結果それに耐えられなくなってしまう。
つまり、そういった人々の殆どは、人一倍優しい方なのだと、今はそう思います。
前世も現世も、そして来世も引っ括めて一つの人生だと考えると、人間は何度か「死」や、又はそれに相当するものを、それぞれの移り変わりのタイミングで経験することになります。
現世との別れだと考えると、勿論、悲しくて寂しいことではあるのですが、人間が避けては通れない、「死」というものを、「悪」とは思わなくなりました。
でも、やっぱり、出来る限り現世を目一杯長く生きたいと思うし、皆さんにもそうであって欲しいと思っています。
亡くなってしまう理由や原因は人それぞれでしょうし、病気や事故のような、不可抗力に見舞われてしまうことの方が多いかもしれませんが、どんな人にとっても明日は未知の世界であり、何が起こるかなんて分かりません。
勿論、来世も未来の出来事ですから、自ら死を選んで次の世界に進んだとしても、今より楽になる保証なんかどこにもありません。もしかしたら、今よりもっと辛いかもしれない。
それなら、無理矢理に「死」を自分の方に引き込まず、だからといって必要以上に恐れず、今を目一杯生きて、いつか訪れるその日を、自然な気持ちで迎えた方がいいですよね。
人それぞれに考え方があるとは思いますが、今の私は「死とは死ぬ為のものでは無く、生き来ている上での通過点である。」、そう考えています。
皆さん、生きましょう。

相反する「恐怖」と「憧れ」の果てに 望ましい死とは

相反する「恐怖」と「憧れ」の果てに 望ましい死とは

死について考える場合、行きつくところは全く両極端な2つの感情です。それは、究極の「恐怖」と「憧れ」です。つまり、自分が残されることになる愛する者の死に対しては、この世の何よりも受け入れがたい辛い現象であり、心の底から恐れています。逆に自分が死ぬことは大歓迎です。いかに人に迷惑をかけずに生きるか、老いたのちの困難を考えるとむしろ生きていく不安の方が恐ろしいのです。
親族の死を何度も経験する年齢となりましたが、理屈抜きに愛してくれる血縁の人々が次々とこの世から去っていく悲しみと心細さときたら想像を絶していました。若い頃は死に直面しても、ただただ悲しかっただけまだましだったように思います。いつからか純粋に悲しむことができなくなり「ひとりになったら自分はどうなるのか」とチラリと考えずにいられません。そんな醜いエゴを自覚するなんてイヤでたまりませんが、どうしても頭をよぎってしまい、ごめんなさいと謝りながら手を合わせています。死を受け入れて感謝と共に立派に見送り、命を、家をつないでいく大人になりたい。それが逝く人のへの何よりのはなむけになるとわかっています。いくら年をとっても、そうなれない自分はみっともないほど子供であり、大嫌いです。大切な人を失う時は身代わりに死にたいといつも思います。こんなに真剣に祈り願うのになぜ死ねないのか、世間には悲しみのあまり食べられなくなり眠れなくなり死んでしまう人がたくさんいるというのに情けない。肉親の死は自分自身を責めさいなむ苦しみでしかありません。
それだけに、自分の死に対する憧れには相当強いものがあります。愛別離苦があまりに辛いので、生きていく気力が尽きてしまいました。死ぬのが惜しいと思えるほど、生きることが楽しければ何の問題もありませんが、生きることに喜びを感じなくなって久しいのです。宮沢賢治の童話に「土神と狐」という短編があります。その中の土神の言葉のひとつ「今虫が死ななければならないのなら、代わりに死んでもいいと思っている」というニュアンスのセリフがとても心に残っています。大いに共感しました。しがらみがあり、迷惑をかけることになる自殺はできません。でも、虫の代わりに死ねるなら今この瞬間にも死にたいという気持ちは常に心に存在しています。
憧れを持ちながら、死ぬときってどういう感じなのだろうかと考えることが多くなりました。最近読んだ夏目漱石の小説の、自らの臨死体験に触れた文章が印象的でした。大吐血して記憶が飛び、瞬間的に気がついたと思っていたのに、実は吐血後30分ほどの間生命機能が停止した状態だった、つまり死んでいたそうです。死と生の間には思っていたほどの差がなく、気抜けした…と、そんな内容でした。それが本当ならば眠るのと同じ感覚で彼岸を越えることも夢ではないのかもしれません。願わくは苦痛なく、眠るように死にたいものです。