「死にたいと思う人」、「生きたいと思う人」についての私からの観点

「死にたいと思う人」、「生きたいと思う人」についての私からの観点

・死にたいと思う人
  まず、「死にたい」と思う人は、どうして「死にたい」と思ってしまうのか?ということを挙げたいと思います。
私が個人的に調べてみたものですが、例を挙げていきたいと思います。
「いじめられていて誰にも相談することができず、誰にも助けを求めることができずに一人で抱え込んでしまい死にたいと思う人」
「借金が多く、もう返すあてがないのに、取立てが厳しく死んで楽になろうと思う人」
「自分の存在意味がなんなのか?自分は今生きていて、なにか意味があるのか?と思い、死にたいと考える人」
「親に小さい頃から大切にされずに、愛情を感じられずに育ってきて、もう死にたいと思う人」
このような例が多くありました。
死ぬことによって、自分が求めていることは、手に入れられるのでしょうか?
「死ぬ」ということは、「無」ということではないのでしょうか。
死ぬことを考えるよりも、生き抜くためには、どうしたらいいのかを考えるべきだと思います。
私は、小学5年生の時にいじめにあいました。
その当時は、親に言うと親が心配するだろうと思い、家では平然を装い生活していました。
その時、親が優しく接してくると、涙が出そうによくなりました。
しかし、もう死にたいなどは、一切考えたことはありませんでした。
だから、実際に死にたいと考える人の気持ちは完璧に分かるものではありません。
なので、「勝手なことを簡単に言うな」と思われるかもしれません。
しかし、周りをよく見渡してください。私たちの知らないことがたくさんあります。
私の身の回りにもそういった人がいました。その人は、47歳の時「子宮がん」と診断されました。
しかも、最悪にも、発見したときにはすでに、末期でした。長くても、半年もつかどうかという診断でした。
息子の結婚式が一年後に控えていました。その人は、「息子の晴れ姿を見るまでは」と余命よりも半年も長く生きました。
そして、息子の結婚式を終えてから二週間後に他界しました。まだまだ、息子の子供も見たかったはずだと思います。
この話は、私の本当に身近で起きた出来事です。これを聞いて、どう思いましたか?
死にたいと思っている人は、生きたいと思っている人に、「私は~の理由で死にたいと思っています。」と言うことができますか?
なにか一つでも、自分が夢中になれることや、信頼できる人、落ち着ける場所、こういったことを見つけることで、
少しは死にたいと思う気持ちを和らげることができると思います。
最初は「そう簡単に見つかったら、苦労してない。」と思うかもしれませんが、なにか行動しないと始まらないと思います。
死んだ後の世界など、誰にもわかりません。死んだほうが楽だと考えている方も多いと思いますが、
私はそうは思いません。もし、死んだ後の世界に行ったとした時に、今よりも、もっともっと辛く、過酷な世界だったら、どうしますか?
その世界では、もう死ぬこともできずに苦しいだけ、死ななかったよかった、と思っても手遅れだと思いませんか?
それなら、今を必死に生き、今をどう快適に生きていくかを考えていくべきだと思います。
勝手な発言も多いかもしれませんが、これが私の意見です。

死は自分の身近にある。自分の死はずっと先の未来だと思い込んでいましたが、違うのかもしれないと思うよ

死は自分の身近にある。自分の死はずっと先の未来だと思い込んでいましたが、違うのかもしれないと思うようになりました。

少し前のことですが、数年ぶりに以前同じ職場の先輩に再会する機会がありました。
会わなかった期間が長かったこともあり懐かしい思い出ばなしから始まり、すぐに会話はあちこちへ飛びました。
その中で四十代の彼の口から飛び出したのは私にも結構衝撃的な話でした。
彼の同窓会での話しです。
かなり久しぶりの同窓会、学生時代とは違い誰もが年を取り、すぐには誰かも気付かないほど顔つきがかわり老けてしまった人もいたそうです。
四、五人が輪になり話しが始まった所で出たのは、仲良くはなかったけれど名前と顔を知る同級生が亡くなったという話でした。それも既に亡くなっていたのは一人ではないらしいとのこと。
先輩の学校の一学年が何人かはわかりませんが、その年代で同窓会をすれば、数人が病気などでこの世を去っているという事実でした。
普段から会社や家庭で、年のせいか体の不自由さが出てきた、健康を扱った番組が気になって観てしまう、CMの健康サプリの宣伝を無視でなくなった、などと笑い話とともに会話に交えることは多くなっていたようですが、その場面で具体的な数字が出てきたことは大きなショックだったそうです。
まだまだ働き盛りの年代です。もう少し先だったはずの死というものが、急に身近になった瞬間です。
先に逝くのは自分の親であり、自分はその時何ができるのか、介護が必要になった場合はどうするのか。一番身近だったのは、自分より年長の人間の心配と、それによって自分がどう動けるのかという問題だったはずが、自分自身の問題として向き合う必要があると気付いたのです。
次の同窓会にはどれだけの人が亡くなっているのだろう、もしかしたら自分だってその中の一人に入ってしまうかもしれません。今は目の前で笑っている友人たちも、その時にはいなくなっているかもしれません。その確率は決してゼロではないのです。
終活、エンディングノートという言葉があります。
終活はお墓の準備や、身辺整理。エンディングノートは終活の中の一部です。ノートは書店にも複数売っているので、既に一般的になっているもののようです。
それは自分の最後をどう迎えるか、残った家族に自分の意思を伝えたり、葬儀の意向を残したり、預貯金の明細を書き、遺族が困らないようにするための物であり、これまでの自分の過去を振り返り整理するための意味のある物です。
二十代、三十代、四十代ではそれを用意するには早すぎると思う方もいると思いますが、人生何が起こるかわかりません。若くして事故や病気で亡くなる方はいるし、自分だけは大丈夫と言い切ることはできません。
少なくとも結婚して家族が増えたのなら、少し考えてみるべきなのかもしれないと、私も先輩の話を聞きながら、自分の死、その後のことなどを考えるようになりました。

仕事で異常に追い込まれていた時、電車のホームに吸い込まれそうになった経験

仕事で異常に追い込まれていた時、電車のホームに吸い込まれそうになった経験

新人だった頃、仕事ができると見込んでもらったのはいいのですが、しごきとも思えるほどの毎日で、もう完全に疲れて切っていました。仕事以外の時間は寝ていたくて、ご飯を食べるのもどうでもよくなっていたくらいです。そんな状態では仕事もできず、しごきがイジメになっていってました。食事ができないから夜は医者にいって点滴打って、そのまま寝る生活が続き、電車のホームに立っていると、吸い込まれそうになる怖い経験をするようになりました。だからホームの中心で電車を待つようにして、電車が到着してドアが開いてから乗るようになったのですが、この吸い込まれそうな感覚がどこから来るのか全くわかりませんでした。
多分うつ病もあったのだろうと今ならわかりますが、当時は追い込まれていて自分の弱さだけが憎かったです。弱くなかったらこんなことにもならなかったかもしれないと思いつつ、仕事自体が好きだったわけでもないので、もっと落ち着いてできる仕事をしようかなと思いはじめました。仕事でうつ病になって自殺に追い込まれるところまではどうしてもいきたくなかったのです。私が高校生の時、親戚が仕事を苦に自殺した人がいたので・・・・。
仕事より自分の命のほうが大切だというのは高校生の時からわかっていたので、こんな状態になってまで仕事する必要があるのかどうか考え始めました。生きるということは苦しみながら死を考える様な状態でいいわけではないです。生きるなら希望も幸せもあるべきなのではないでしょうか。仕事で追い込まれて死を考え始めたら、それはもうその職場にいることが間違っているのではないかと私は自信を持って言えます。そこから逃げることは決して弱い者ではありません。逃げて別の所に行くのは決して楽なことではないから、逃げられる人は、そこで死を選ぶ人より強いのではないでしょうか。
自分の健康と幸せは何よりも大切です。仕事が好きでも、周りが飛んでもない人たちであり得ないような嫌がらせを受けることもあるかもしれません。でもそこから逃げてもいいのではないでしょうか。子供の世界でもいじめを苦にして自殺する子がいますが、私はそいう子供たちに全力で逃げてと言いたいです。そういう状況になったとき、逃げるほうもものすごい労力がいるのです。すでに自殺に追い込まれている段階ですから、精神的にも弱っていますから、もう現状から逃げ出す気力もない状態から、安全なほうに逃げ切るのは大変なことだと理解してほしいです。
私は仕事から逃げました。そしてもっと楽しく生きられる職場を見つけたのです。大変なことでしたが、逃げ出してよかったと思います。逃げるときに「今逃げたらまた同じこと繰り返す」といった人がいましたが、その後死にたくなるような職場で働いたことはありませんので、私の決断はただしかったはずです。

人間は生まれた瞬間から死へのカウントダウンがすすむ

人間は生まれた瞬間から死へのカウントダウンがすすむ

僕なりに生と死に関して思う事は、人は生まれた時から死へのカウントダウンは始っている事。自分の意思で生まれる事は決めれず自分の意思で死ぬ
という選択は出来ます。平均寿命で考えると男性より女性の方が平均寿命は10歳以上長いそうです。何故?男性の方が寿命が短いのか??
僕が思う事は男性は生まれてから死ぬまでに、女性よりも楽しむという事をしないからだと思います。男性は仕事がひと段落した時の時間の使い方が
下手糞で女性は時間の使い方が上手な人が多いと思います。例えば僕の妻もそうですが、料理のレシピを考えるのが楽しいとか。部屋の内装をいじるのが
楽しいとか。日常の生活空間一つとっても男性よりも充実した毎日になるように考えています。長生きをする為には人生を楽しむ事が一番と言う事ですね。
話は変わりますが、今まで生きてきた中で誰しもした事がある話だとは思うんですが、もし仮に寿命があと半年しかなかったら何をするか?という話。
人が自分の寿命が分かっていたらどう過ごすのでしょうか?まず一つ言える事は時間を潰すって言う言葉は使わなくなるでしょうね。
何気なく誰もが使う言葉ですが、死へのカウントダウンが進んでいるのに時間を潰す。命を潰すって言う事と同じ意味になります。
命は誰しも無限にある訳ではないとは理解していますが、時間を本当に大切に考えている人のほうが少ないと思いま。私も今まで死について深く考えた
事はなかったので。ただ人の死は突然であり日常的に起こっていますね。一日中ニュースをつければニュースで流れるだけで殺人事件から自殺まで
死について目にしたり聞いたりしない日はないと思います。どんだけ科学や医学が発展しても寿命は伸ばす事が出来ても殺人事件や自殺などはなくなる
事はないでしょう。例えば交通事故死など、本当に偶然この場に居合わせたので命がなくなってしまったり。そこは運命と受け入れるしかないでしょうね。
昔からよく聴く話ですが自分が死んだ時泣いてくれる人間の数が大事とかっていう話しがありますが。それだけが全てじゃないような気がします。
まず泣いてくれる人の数で自分の生きた評価となるなら、どこそこの大統領が亡くなった。有名人が亡くなった。など人の認知度で泣いてくれる人数は
変わります。僕が一番大事だと思う事は、自分が死ぬ直前に例え一人で床で死の最期を迎えたとしても自分の人生は本当に幸せだったと感じられるなら
それはとても幸せな最期と思います。人は生まれてから死ぬまで人に評価されています。この記事を書くにあたり改めて自分の死までの時間を大切
にし自分が死ぬ時胸を張って幸せな人生だったと思えるように今日から生きていこうと思います。

日々の毎日に苦痛を感じて立ち直れないず死を考えてしまう

日々の毎日に苦痛を感じて立ち直れないず死を考えてしまう

最近日々の生活に苦痛とこの先の暮らしに対する不安やお金の事や借金の事を考えると、とても逃げ出したくなり生きているのが嫌になり死を考える事が多くなりました。そういう気持ちになるともう立ち直れなくなり、頭の中には死しかありません。こんなに体がきつくても必死で働いているのに、仕事の量程の給料は貰えずにただただ厳しい現実。仕事に追われて自分の時間もないままに過ごしている毎日。働いても全部支払いや借金にお金が消えていき、何も残らず足りない程で支払いは遅れて電話は来るは、払い込み用紙は来るはで、それでもお金は払えない現実。必死で働いているのに自分で使うお金も全くなく、休みの日でもお金がないので毎回家で過ごす休みの日々。私はどこでもストレス解消出来ません。仕事でも上司の心ない言葉に傷つき落ち込み、気持ちの中に日々言葉にならないストレスを抱えいます。借金も返しては借りての繰り返しで、全く減らない上に返しても利息にばかりお金が取られて元金が全く減らずに、いつになったら借金が終わるんだろうと言う不安。ある程度年齢が来る前に返済を終わらせたいが目途が全く立ちません。老後のお金も貯める事も事も出来ずに、ただただ毎日仕事に追われて年を重ねていく事が苦痛になってきています。そうすると自分の気持ちの中では整理が出来なくなり、もう本当に死しか頭に浮かびません。自分の身辺整理をして本当に死のうとも考えました。このまま生きていても苦痛の日々からが抜け出せないし。何一つ自分の楽しみもなく生きていて何の意味があるのか、生きている事の意味が分からなくなります。死を考える私は弱いのかもしれませんが、人はやはり追いつめられるとどうしようもなく死を考えてしまうのだろうかと思います。何か日々の中で楽しいことが一つでもあると考えが変わるのかもしれませんが、今の私にはやはりそれがありません。働いてる以上給料もらった時位美味しものが食べたくなります。しかしそれすらも出来ない状況がもう1年近く続いています。いつになったら死を考えずに、すこしでも楽しいことが見つかる日々がくるのか見通しもないです。今のままでは老後ありません。生活できない状況ですから。本当に毎日泣いては死にたいの繰り返しで自分で自分が嫌になります。私は今の現状からただただ逃げ出したいです。だから死ばかり考えてしまうのです。自分を変えなければ何も変わりませんが、生きていきづらくしている環境もあると思っています。死を選ぶことは簡単ですが、生きていく事の方が本当に苦痛です。楽しそうに笑っている人がうらやましいです。今では自分の感情もうまく表現できない位に心の片隅に死があります。

自分の死生観と繋げていくことの意味について

自分の死生観と繋げていくことの意味について

30代ぐらいになると特に女性は結婚とか、子供とかそういったキーワードがついてまわるようになります。子孫を残すということは確かに重要なことだからそう言われることも当然と言えばそうでしょう。しかし私はずっと疑問におもってきたのです。はるか昔からまるでリレーのように親から子供へと命のバトンは受け渡されてきたわけですが、いったいその先、つまりゴールはどこにあり、何の目標のためにこの受け渡しは行われているのであろうかということがずっと謎だったのです。こんなことは通常まったく考える必要はありませんが、私は納得できないと何に対しても諦めがつかない性格なので、どうしても適齢期=結婚、出産等のキーワードになにかもやもやしたものがありました。
私は20代後半で縁あって占いやスピリチュアルなことを学ぶ機会がありました。上記のようなことを疑問に思うたちだったからそうなったのもごく自然の流れであったかもしれません。
こういう類のことを勉強しているとだいたい生まれ変わりとか、魂とか、カルマとかいうキーワードに遭遇します。最初は私もいかがわしさを感じていましたが、最近ではそんなこともあるかもしれないと思い始めました。
もしかしたら私達はこの世界の栄養素のようなものではないかと感じ始めたのです(世界とは惑星から宇宙、空間まで計り知れない規模のものを含んでいます)
例えば生物の体は死ぬと土に還りますが、魂というものもまた存在していて(スピリチュアル的観点でなく科学的に見るとそれは生物の持つ周波数とか波動とか言う言葉になるかもしれない)そういったものもまたこの世界全般に吸収されるのではないかと思うのです。
それは私達には決して見ることのできない時間軸の果てに一つの卵、新たな世界が生まれるきっかけになるのではないかと感じます。
そのために私達は子供を育て、文明を発達させ、過ちも犯し、様々なことを経験するようにできているのではと考えるようになりました。
そう思えた時に私の中で結婚への概念とか、性別がこうだからこうしなければいけないという固定観念は消えてしまいました。
もちろん、人間としての本能はあるから寂しかったり、世間の目とかも気にならないわけではありません。
でもそれより重要なことはこの世界全般で自分なりの経験をし、この世に種となる要素をまきつづけることだと思うのです。
私はずっと先にある卵の世界に再び生まれた時(人間とはかぎらない)なるべく美しい世界で過ごしたいと思っているのです。だから性別のことはいったん忘れて、ただの一人間としてできるだけのことをして一生終えたいと考えています。その過程で結婚や子育てがあるならそれはそれで起こるべくしてそうなることだと思います。
女性や男性と事に捉われず一人の人間として生き、次の世界への種をまき、最後は死んでいくそれが私の死生観です。

看護師をしていて感じる人間の死・残された家族

看護師をしていて感じる人間の死・残された家族

職業で看護師をしているため、いつも近くに死を感じます。特に集中治療室にいた時には、人間の命のはかなさを感じました。さっきまで元気だった人が急病になり亡くなる、交通事故に巻き込まれ亡くなってしまうなどということが、1日の間で何度も繰り広げられています。その光景を見ていると人間はあっけなく亡くなってしまうものだと感じて、毎日を大切に生きなければならないと感じていました。それと同時に自分の大切な家族や友人、周りの人も同様にあっけなく亡くなってしまうかもしれないとも思い、喧嘩をしても早めに仲直りしようと思うようになりました。また自分の人生、人との繋がりを本当に大切にしたいと思っています。一般病棟で働くようになってからは、人は自分の寿命を感じ取るのかもしれないと思いました。ある患者さんに「どうしても今、息子を呼んでくれ。」と言われたことがあります。半信半疑でしたが、息子さんに連絡をとり、来院いただくこととしました。そのあと、その患者さんは私に感謝の言葉や、伝えたいことをたくさん話してくださいました。そんなことをしていると息子さんが到着して、家族だけの時間を作るため私は、部屋を出て、そのまま勤務が終わりました。次の日、職場に行くと患者さんは亡くなっていました。末期の状態ではありましたが、すぐに亡くなってしまう状況ではなかったのに、患者さん自身何かを感じ取っていたのか家族やスタッフみんなに挨拶をし、人生を終わられました。声に出す、行動に起こすは別として、自分の死期というものは誰もが多かれ少なかれ感じ取っているのかもしれないと思うようになりました。そして誰かが亡くなるということは、その人自身と家族にとって大きな意味をなすものだと思います。死後のことは何もわかりませんが、誰かが亡くなるということは、結局残された家族に大きな精神的打撃を残します。急に亡くなられ、死に目に会えなかった家族の方は悲しみ、長い闘病生活を終えて亡くなられた時には、家族の方は悲しみながらも感謝の言葉を亡くなられた方にかけているなんてシーンを見かけます。亡くなる方にとってもエンディングノートのように死に向けた準備が必要ですが、家族も家族が亡くなるという準備をしていかなくてはならないのではないかと思いました。それができないまま家族が亡くなってしまうと、やはりショックが大きく精神的に不安定になる方も多く、やはり家族の死を受け入れるということは簡単なことではなく、人それぞれに様々な葛藤が存在し、ステップを踏み受容する段階に達することができるのではないかと思います。亡くなる方ばかりだけではなく、家家族の方のサポートもとても重要だと感じています。

死ぬこと、生きること、それはわからないことだらけ

死ぬこと、生きること、それはわからないことだらけ

人は誰しもが必ず経験するのが、死です。金持ちも貧乏も関係ありません。時が来れば誰もが死んで動かなくなります。
皆さん、それぞれ死んだらどうなるんだろうと一度は考えたことがあると思います。もちろん、私もあります。
死ぬのが怖い、死ぬのは痛いんじゃないか、死んだらどこに行くんだろうと。
死んだ後のことを考えても生きてる人間にはわからないことですが、私は自分の中で死とはこういうものじゃないかとかって思っております。
死とは無になること。元々の宇宙のエネルギー源に戻ることです。またそのエネルギーが生命になったり、星になったり循環しているのかなと想像しています。
死んだら死後の世界やこの世界のことを全て理解できるのはないかと、死ぬのが少し楽しみだったりします。
それまで精一杯生きてこの世界にやり残したことがないようにしようとは思っております。
生きてる間は死ぬまでの暇潰しなんだと誰かが言ってました。それはそうなのかもしれません。自分で目的を持って生きないとこの世界は自由すぎます。なんなら、今で死ぬのも自由です。命なんてそんなものなんです。
やってはいけないことって特にありません。極端な話、人殺しとかもやってはいけませんが、それはこの世界をお互いに生きやすくするためのルールなだけかもしれません。
生命って今のこの瞬間しかありませんが、死後のエネルギーの世界はもっと深いのかもしれません。死んでも何もわからないかもしれません。だって感じる五感もないし、考える脳ミソもありませんから。
生きてる間に考えてもムダなことってたくさんあります。だけど、考えることによって生きる目標や意味、今ある悩みのちっぽけさなんて大したことがなくなります。
死ぬ以外にお金持ちでも貧乏でも平等なものがあります。それは時間です。私たちの本当に持っているステータスはこの命と時間だけなのかもしれません。
あとのお金や土地や地位なんてほんと今世のものだけで大したことがないのかもしれません。表面に惑わされず、自分の幸せを追及することこそがこの世界に来た意味だと私は思っております。
そして、神だの仏だのといった絶対的な存在は本当にいるのかもしれませんし、いないのかもしれません。でも不思議なことや、人間にはわからないことがたくさんあります。そんな理解できない世界で生きてるのだから、理解できない存在があっても普通なんだと思います。
人は目で見たものでしか、信じることができませんがこの世界は見えないものだらけです。そんな世界であなたは何を信じるのでしょうか。
今生きてる時間って死ぬまでにたくさんあります。いっぱい悩んで正解なんてあるのかわからないけど、自分が信じた好きな道を誰しもが生きていけたら、素敵な世界になるのになと思いました。