人間が平等に与えられている結末である「死」について

人間が平等に与えられている結末である「死」について

人間だれもが生まれながらにして決められている運命があります。それが死です。
人間は死ぬことで一生を終えていきますが、生きているうちはあまり死ぬことに関してしっかりと考えないものです。
それはなぜかというと、死にたくないからです。死にたくないから、死ぬことについて考えることを避けてしまうのです。
ですが、私個人の考えとしては定期的に死と向き合う時間は必要であると考えます。
それはなぜかというと、死について考えたらそのあと少しだけあなたの生き方が変わると思うのです。
死と向き合わなければ生と向き合うこともないのです。
一日のうちに少しだけでも、いつ自分が死ぬのかわからないと考えれば、自ずとまわりの人間や自分をより大切に、一秒一秒を大切に生きるだろうと思います。
ただし、死について考えることで悲観的になってしまえば、それはそれで元も子も無くなってしまって逆に精神面に良い影響は与えません。
なので、私は映画や小説、漫画などを通して死について考えるようにしています。
物語の中でなくなっていった登場人物に感情移入していくことで、個人的にはかなり冷静に死と向き合うことが出来ます。
物語ごとの世界観や設定を捉えながら、その世界での生きる理由、生き延びていく理由などを考えたり、その世界で死なないためにどういった生き方をすべきなのかを考えたりすることも多々あります。
また、こういった考察をしていくことで、一つ一つの物語がより一層楽しめます。
そういった理由もあり、私は登場した人物が死んでゆく物語を好んで読んだり見たりしています。
出来る限り自分を死と近づけて、生と向き合い、今日や明日の生き方の質を少しでも高めていくことはとても重要なことだと考えています。
そういった経験をしていると、段々とわざわざ死について考えることがなくても、生について深く考えることができ、将来に対しての考え事や不安などがスムーズに解決されていきます。
また周りの人間に対しても考え方が変わり、より一層、友人や家族を大切に思いながら生きていこうという気持ちになれます。
今日を幸せに生き抜くことで、明日を呼び込んでいく。そんな毎日が続けば日々が幸せに感じるはずですし、周りの人間も幸せに出来るはずです。
そういった理由もあり、私は定期的に常に死に関係している物語を吸収していってます。
死の直前になって、大切なものに気づくのでは、相当な手遅れです。
平凡な毎日の中でも大切な人を思い、元気に生きていくことを私は心がけています。
決して死を考えたりすることはネガティブなことではなく、むしろポジティブにつながるものだと私は考えます。
生きている時が怠慢であると思ったその時に、死について考える。この作業が大切だと私は考えます。

「メメント・モリ」―――死ぬことを忘れるな

「メメント・モリ」―――死ぬことを忘れるな

「メメント・モリ」ということばを昔教わった。ラテン語の警句で、日本語に訳せば「汝、死を想え」や「死ぬことを忘れるな」とかいったことばになる。2000年頃の洋画や、某機動戦士アニメにも登場するくらいには有名なことばであるが、改めて取り上げたい。
天災地災、ブラック労働、異常気象、突然の事故、そして事件……今の世の中、どんなに健康で、金銭的な問題もなく、順風満帆に生きていようと、そしてどんなに危険から回避していようと、いつ何時どうやって死ぬかわからない。たとえば、道を歩いていただけで通り魔に刺されたり、大地震で建物の下敷きになったり(ちなみに首都圏の築50年のアパートに住む筆者は地震のたび戦々恐々である)、偶然乗った飛行機がハイジャックされて自爆テロに巻き込まれたり、市街戦を繰り広げるマフィアの流れ弾に当たったり……はさすがに日本では可能性が低いであろうか。何はともあれ、生きている限り、突然やってくるかもしれない死から逃れる術はないのだ。
生きている者にとっての「死」の警句。意味の捉えかたはいろいろある。
今、どれだけ絶頂の有頂天にあっても、幸福であっても、いつかそれはなくなる。たとえ苦境で歯を食いしばっていたとしても、それもいずれ自分とともに終わることなのだ。あとには何も残らない、そのことを忘れるな。人生のはかなさ、むなしさをも覚えさせることばだ。とくにキリスト教世界では、この世での娯楽や贅沢の無意味さを指摘する意味合いで考えられるようになった。たしかに、いずれは必ず終わる現世での苦しみを耐えて徳を積み、死によって救ってもらおうという宗教世界にはフィットする考え方だ。
もうひとつ意味がある。
この世でどんなに徳を積み、真面目に生きたとしても、いずれ死ぬことからは逃げられない。そしてその死とは明日なのかも知れない。それならば限られた時間のなかで、食べ、飲み、とことん遊び尽くすべきなのだ。実はもともとの意味はこちらである。今よりも人の人生は短かかった時代。今よりも死は生の身近にあって、呆気なく死んでいく他人の姿もよく目にしていて、いつか自分が死ぬことにさえリアリティを持って人々は生きていたのだ。
医療も福祉も発達し、人は長く生きられるようになったが、まやかしのような強い「生」の存在感で、死の概念は少しずつ薄れてしまっている気がする。(少なくとも、今、健康で、紛争に巻き込まれることもなく順風満帆に生きられている大多数の方は。)
「汝、死を想え」、「死ぬことを忘れるな」、捉えかたは十人十色だと思う。が、ときどき自分が死ぬことを「思い出す」ことは、生きていくうえで大切で、ときに生き方も変えてくれるのかもしれない。

アニメや漫画、ゲームで描かれる死について

アニメや漫画、ゲームで描かれる死について

私はアニメや漫画、ゲームが子供の頃から好きで、毎日の生活の中でそれらをとても楽しみにしています。
それらの中には、作中で死が描かれているものもあり、好きなキャラクターが亡くなってしまうことも多くあります。
私は作品の中で、死について触れたときに、ふとその状況を現実や自分の身の回りの状況に置き換えて、死について考えてしまうことがあります。
例えば、アニメ「魔法少女まどかマギカ」では、その独特な世界観の中で、予期せぬ死、死というものの儚さ、あっけなさというものが描かれていると思います。
主要なキャラクターが5人という、他アニメに比べると圧倒的に少ない人数にもかかわらず、そのうちの1人は物語の序盤で、ほんの少しの油断が故に、あっけない死を遂げてしまいます。また、女子中学生なら誰でも起こりうるであろう嫉妬という感情から、自己嫌悪に陥り自分自身を見失って死に至る者、その少女を助けようと必死に戦い、友情という絆のもとに死に行く者など、続々とキャラクターが死んでいきます。私はこのアニメを初めて見た時、アニメとはいえ多くの人がこうも簡単に死んでいくことに、とても驚き衝撃を受けました。人の死とてもはあっけなく、予期できないこともたくさんあるということをこのアニメを見て痛感しました。まだ子供だからといって、死なないとは限らないのです。毎日一生懸命生きているからといって、明日が今日と同じとは限らないのです。それは自分の人生にも当てはまります。
こんなにも死があっけないものだなんて、ただただ無力さを感じます。いつか訪れる自分の死も、予期せぬものであったりするのかと思うと、とても恐怖を覚えます。
しかし私は、死に恐怖を覚えながらも、それをゲームとして身近に感じ、遊んでもいるのです。
私はFPSといわれるジャンルのゲームをよくプレイします。これはシューティングゲームなのですが、簡単に言うと銃を持って敵と戦うゲームです。
それには例えば、戦場、戦争がテーマのゲームもあります。さらにオンラインのゲームですと、実際に世界中の人々とリアルタイムでゲームをすることができます。
戦場が舞台なので、もちろん相手も自分も人間の姿をしていますし、先に述べたオンラインの状態ですと、本当に相手も人間が操作しているのです。
そのゲームではチームの勝利のため、ミッションをこなすため、自分が死なないために、自分に襲いかかってくる相手に対して、
ためらいもなく銃を撃って倒していくのです。そのゲームをプレイしているときは何も考えていないのですが、ゲームを終えたとき、
いくらゲームとはいえ、こんなにも簡単に躊躇することなく、相手を撃ってはいけないのではないだろうかと思い悩みます。
もちろん、人の命は簡単に奪っていいわけがないのです。誰にもその権利はありません。そんなことはわかっています。ゲームはあくまで遊びなのです。
しかし、遊びではありますが、何年も遊んでいると段々と自分の死に対する感覚が麻痺していくのではないだろうかと困惑することがあります。
私はアニメや漫画、ゲームにて死を身近に感じることがありますが、これらはあくまでも作り物であって、現実と混同してはいけないということ、
そして死は誰にでも訪れることで、自分もいつかは覚悟をしなくてならないということ、そのいつかが予期せぬこともあるということ忘れずに、
人生を後悔しないようにと思いながら日々生活しています。

死にたい気持ちをコントロールすることについて

死にたい気持ちをコントロールすることについて

私はよく死にたいなと思っていたほうでした。はじめは高校時代、受験勉強のしすぎでノイローゼ気味になることが多く、こんなにもつらいならいっそ死んだほうがましかなとよく布団の中で考えたものです。結局大学には合格したのですが、大学入学後もあまり大学になじめず、こんなに周りには楽しそうな人たちがいるにもかかわらず、自分のつまらなさは何なんだろうと卑屈になることもあり、生きていることに希望を感じることはあまりありませんでした。ここまでの事については死について考えることはあっても、実際に行動に移そうなどという考えは到底ありませんでした。しかし、大学生の後半、就職活動がうまくいかず留年を繰り返してしまいました。このときはさすがに死ぬことを具体的に考えました。今後の長い人生の中で楽しいことが起きることが何も想定できなかったのです。就職できずフリーターでそのまま生きていき、特に何事もなく人生を終えるぐらいであればいっそ今死んでしまおうかと考えてみたこともありました。そんな鬱々とした日々を過ごしていた時、このままでは本当に死にかねないと思い、考え方を少し変えてみることにしました。まずは自身の現状分析、今生きていて、暖かいご飯が食べることができ、暖かい布団で寝ることができる。特に命を狙われることもない。これだけで十分自分は幸せなのではないだろうかと思ってみることにしたのです。今の状況は客観的に見てもいい状況とは言い難いのですが、最低限これだけはそろっているということは世界全体でいえば上位50%より上の幸せな状況といえるでしょう。そう考えると今の状況が少しだけ明るくなり、もう少し頑張ってみようかと思えるようになりました。多くを望まなければ、充分幸せに生きていけることもまた再確認できました。人はいつ死にたくなるかというと、将来への希望が感じられないとき死を考えます。そして、その将来への希望の基準となっているのはかなりの確率で近しい他社の存在です。同い年の友人やテレビで見るセレブなどの周囲と比べてしまうことで希望を感じられなくなってしまうのです。しかし、その基準の視野をもっと広げることによって、まだまだ自分より不幸な人間は世界にはたくさんいて、その人たちが頑張って生きようとしているのに、自分が逃げてどうするんだと気を貼って生きることができます。希望がない状態を絶望といいますが、絶望とは本来もっと遠くにある存在なのかもしれません。そして、その絶望を感じなければ死にたいと思うこともなくなります。現状に悩んで死を考えている人は、その絶望を遠ざける考え方を身に着けることをおすすめします。まずは、これが簡単な処方箋です。

息子が家庭を持つまでは頑張って長生きしたい

息子が家庭を持つまでは頑張って長生きしたい

夫と話していて驚いたのですが、子供の頃に親が死んだらどうしよう、一人になってしまうと心配していた時期があり、そう考えだした時期がほぼ同じで小学三年生くらいだったのです。私の場合は勝手に親は75歳くらいで死んでしまうと思い込んでいて、その時には自分は何歳になるのだろう、どうやって暮らしたらいいのだろうと本気で心配していました。夫は何故か母親が死んでいるのではないかと気になって気になって何度も布団まで見に行っては息をしているか確認していたそうです。その後大きくなるにつれ、死ぬのは当たり前だけど出来るだけ遅いといいな、と思うようになり、そのうち自分はいつどうやって死ぬのだろうと考えるようになった、という点でも一緒でした。
思い出すと面白いのですが、20代後半に婚約までしていた相手に手痛く振られた事がありました。当時海外出張続きの仕事をしていたので毎週のように飛行機に乗っていた私は、その彼と付き合っていて幸せな時期には飛行機が少しでも揺れると彼の顔を思い出して、どうか墜落しませんようにまだ死にたくない、と手に汗をかいていました。
ところが振られた後にかなり酷い乱気流に巻き込まれ、ものすごい揺れを体験したのですが、全く怖くもなく涼しい顔で座っていられたのです。あれ?私は何で全く怖くないのだろう、と思いました。きっと彼に振られて心の中に、どうでもいいや死んでもいいし、みたいな気持ちがあったのだと思います。
死についてあれこれ考える時に思う事は年齢によって全く違っていて、自分が人生折り返しの時期になった今は、高齢出産で息子がまだ小さいので息子の為にできるだけ長生きしたい、せめて息子が家庭を持つまではと思うようになりました。ただし、その場合は健康である事が第一条件です。寝たきりや病人で息子に世話になるのでは意味がありません。
また、私が死んだ後に息子があれこれ煩わしい目に合わないように、身辺整理をきっちり普段からしておこうと思うようになりました。
私の母は急逝したので、残された私にとって一番大変だったのは遺品整理でした。母自身もこんなに早く、それも突然死ぬとは思っていなかったので何も整理されておらず、
勿体ないと物をしまい込むタイプだった母の遺品は膨大な量でした。その経験を思い出し、身辺整理第一弾としてアルバム類や手紙の類を全部処分しました。
今はまだ夫や息子ともっと一緒に過ごしたいので死にたくはありませんが、その時がいつやってくるかは神様にしかわかりません。いつその日が来てもいいように、徐々に整理を
して残された者たちが困らないように、というのが今できる事ですが、それだけではなく、いつその日が来てもお互いに後悔がないようにと考えるともっと夫や子供との時間を
大切にできるように思います。

自分が死ぬ時のことを想像して怖くなることがある

自分が死ぬ時のことを想像して怖くなることがある

中学生くらいの頃から時々考えることは、自分が死ぬ時のことを想像しては勝手に怖くなるということです。
死ぬ予定なんてまだまだないのにも関わらずそんなことを考えてしまうことがあるのです。
そういうことを考える時は決まって夜中、布団に入っている時だけです。
基本的に起きている時に死ぬことの恐怖を感じたりすることはありません。
私の場合布団に入ってから中々眠れないといいことよりも悪いことを考えてしまう傾向があるようです。
本当はいいことを考えた方が脳にもいい影響を与えるそうですが、私はどうしても暗いことを考えてしまうのです。
中学生の頃からそう考えるようになったのは何故なのか分かりませんが、多分祖父が亡くなったことも関係しているのかも知れません。
それまでは身近な人が亡くなることを経験したことが一度もなかったので、死ぬということが身近に感じた瞬間でもあったのです。
因みに私がいつも想像している自分が死ぬ時というのはやはりベッドで横になって死ぬのを待っている状態です。
人はベッドの上で死ぬとも限らないのに何故か毎回ベッドの中にいる私を想像してしまいます。
最後死ぬ前は自分が死ぬということが分かるのかなとか、痛みはあるのかなとかそんなことも考えたりすることがあります。
余命宣告をされて亡くなる人であればきっと自分が死ぬ直前というのも分かるのかも知れません。
でもされなかった場合は分かるものなのでしょうか。
私は死ぬ予定がないにも関わらず自分の死を想像しては怖いと思ってしまう人なので、もし余命宣告をされたとしたら毎日のように怯えながら過ごすことになってしまうかも知れません。
今年の春頃に私の友達の父親が亡くなったのですが、その方は余命宣告をされて亡くなりました。
告知をする時はどうするか迷ったそうで、お父さんも泣いたそうです。
告知された本人は凄く怖いとは思いますが、私も告知はされたいなと思います。
毎日恐怖を感じながら過ごすことになりそうとは言っても、もし余命宣告を告知されなかったら貴重な毎日を無駄に過ごしてしまいそうだからです。
私だったら残された時間で出来る限り自分が好きなことをして過ごしたいです。
いつ頃まで生きられるのか分からなかったとしたら、やりたいことも出来ないまま人生を終わらせることになってしまうと思います。
そんなことは絶対にしたくないですし、なので家族がもし同じように余命宣告をされたとしたら本人にも告知はしたいと思っています。
今でも死を考えて怖くなったりすることはあるものの、最近は以前ほどは考えることは少なくなって来ました。
ただ、最近は自分が死ぬことよりも家族が死んでしまうことを想像した時の方が怖くななります。

20歳の時に思った「明日がこの世の最後だったら何がしたいか」の話

20歳の時に思った「明日がこの世の最後だったら何がしたいか」の話

20歳のとき、私はご遺体の処置を専門にする仕事をしていました。そのとき、いろいろなミスがあり、感染したら最悪24時間以内に昏睡状態に陥り死に至る可能性があるという状態になったことがあります。
死んだ人とその家族に毎日のように接していた私ですが、私自身にとっての死というのは、考えたことも考える必要もない遠い存在でした。先のことといえば、次に彼といつデートしようかというくらいの、本当に身近な将来以外は、ほとんどが漠然とした未来の希望しか持っていませんでした。
でも、この時の私が置かれた状況というのは、もしかして感染していたとすれば、24時間以内には昏睡状態になるということだけ。初めて、何とも言いようのないやり場のない怒りに狂いそうになったのを覚えています。こんな状況に陥る羽目になった原因を考える時間ももったいなく、かといってやり場のない怒りをぶつけないということもできません。一緒に同じ状況にあった同僚と、その日はとりあえずお酒を飲みに行きました。
この日のお酒は、何を飲んだのか覚えていられないくらいの量を飲みましたが、全く酔うことが出来ませんでした、日付が割るまでは、声を荒げて泣きながらなにか心の中の怒りを吐き出していましたが、深夜を過ぎると、だんだん、あと何時間しかないんだなあと腕時計ばかり二人で見ていました。
明け方の5時前だったでしょうか、どちらが言い出すわけでもなく、私たちは「帰ろうか」といいました。そのとき、もしものことが自分の身に起きるとしたら、私の意識が保てるのはあと数時間というところまで来ていました。
同僚と始発電車にのり、ホームで別れ、無意識のまま向かったのは実家でした。すでに実家を出て一人暮らしをしていた私にとって当時の実家は、距離的にはたいして離れてもいませんでした。ただ、本当になんとなく足が遠のいていました。
何の前触れもなくその日の朝、実家に顔を出した私を、母は何も言わずいつものように「おはよう、ご飯食べる?」と言って迎えてくれました。いつもは「いらないよ」と言って一切食べない私でしたが、その日は、何か口にしたのを覚えています。なにしろ、私にはたった一つどうしてもやりたいことがあったのです。あと数時間しか記憶がないかもしれないと思ったときに、私自身が最後にやりたいと思ったのは、「実家で母親と朝の連ドラを15分間一緒に見ること」。本当につまらない、日常のなんてことのないことです。やったことがないわけではありません。なのに、私にとって最後にどうしてもしておきたいと思ったのでした。
おかげさまで、あの時心配していた病気の感染もなく、今も無事に私は生きています。でも、この体験があって、私の死生観は180度変わりました。死ぬということは、だれにでも起こりうる出来事だけど、遠い先の話だとは思えなくなりました。死ぬということは、生まれた瞬間に決まっているのだと、今の私は思うのです。
母親のおなかの中から生まれ出でるその瞬間に、人は人生のストップウォッチを押しているのだとおもいます。それがいつ0(ゼロ)になるのかは私もわかりませんが、確実に針は動き続け、針が12をさしたときが人が死ぬときなのだと思うのです。だから、今の私は、いつでも心残りがないように、その日自分自身ができる精いっぱいのことが出来れば満足しようと思えるようになりました。死を、常に身近に感じていたいとは思いませんが、身近にあることを知ったからこそ考えないようにできるのかもしれないと思っています。

死ぬということへの恐怖と無くなる自分の存在

死ぬということへの恐怖と無くなる自分の存在

知人や親族が亡くなったり、有名人が亡くなった話を見聞きしたりすると死について考えてしまうことがあります。
特に、親族の葬儀の時に火葬場に行く時は死んだら焼かれるということが怖いです。
火葬場は、とても死ということを実感するのです。
霊や魂というものを信じていないので、火葬場は存在が消滅する場所だと感じます。
死について考えてしまうときはベッドに入って眠る前で、死んだらどうなるのだろうと考え始めると答えはないので堂々巡りをします。
一番思うのは気持ちって何だろうということです。
死んだら気持ちは何処に行くのか、脳が停止した時点で気持ちというものは消滅してしまうのだろうかと思います。
三途の川や天国や地獄は、死に行く人がすがる為に造り出されたものであり、死んでしまったら人間はただの物体になり、記憶や気持ちは全て無になり存在は消えると思うと物凄く怖くなります。
今まで生きてきた中で、何回か本気で死んでしまいたいと思ったことがあります。
そのように思うときは、大抵が自分が何かに失敗した時や、うちは自営業なのでお金が廻らないときです。
死んでしまえば全て無くなる、全て自分は解らなくなって無になると思う反面、残して行く周囲のことを考えてしまい踏みとどまります。
自分が死んだら、何もかも消える自分は良いが残した人間には多大な迷惑をかけてしまうと思うからです。
でも、それは死に対する恐怖からの言い訳であって、本当は死んだら無になって楽になったということすら解らず感じなくなることへの恐れが思い止めさせているいるような気がしました。
自分が死んだらという恐怖と共に思うのが、主人や子どもが死んでしまったらという恐怖があります。
人の死に目に立ち会う経験は一度もありませんが、何ヵ月か前に16年一緒にいた愛猫の死を目の前で経験しました。
命が消える瞬間は簡単でした。
軽い悲鳴のような声と共に身体の動きが止まったのです。
哀しみと、死への実感、存在が消滅する瞬間は人間でなくてもこんなに怖いのかと思ったのです。
身体の機能が停止したから死んでしまったということが現実ですが、何も伝えられなくなり、何も応えてくれなくなり愛猫の心や気持ちが無くなってしまったことが一番怖いことなんだと感じたのです。
これが、主人や子どもだったらと思うと自分が死ぬことより怖いです。
死を考えるときに、生きるって何だろうと思いますが、これが生きるってことなんだと愛猫の死を目の前にして思いました。
死ぬこと生きること、どちらを考えても答えを見出だせないままです。
死ぬことへの恐怖、生きることの大変さ、人生って何だろう、死んだら無くなってしまう心や気持ちというもの、考え出したら終わりがなく終着しないままです。